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2000年代初め、中国が台頭し、GDP世界2位に躍り出た。鄧小平による路線修正が、経済の急成長をもたらした。激変した隣国に翻弄された日本は、そこから何を学んだのか。

 現在、日本電産で執行役員グループ中国圏営業統括を務める甲斐照幸が急激な変化を感じたのは2000年代前半のことだった。当時、日本の大手カーエアコンメーカー社員として中国赴任をしていた甲斐は、1993年から台湾や中国で現地の自動車メーカーを相手に売り込みを続けていたベテラン駐在員。その彼の目から見て、2000年代に入ると中国企業の社内には従来と異なる雰囲気が漂うようになった。

 「社内にいる外国人の数がどんどん増えていった。部署によっては中国人より多いと感じるくらいだった」

 それまで中国人ばかりだった職場に黒髪ではない従業員が目に付くようになった。恐らくは欧米の自動車関連企業から引き抜いた技術者やデザイナーなどだったのだろう。日本人も少なからずいた。背景にあったのは、日本に迫り、米国に次ぐ世界の経済大国に躍り出ようとしていた中国の急成長だ。事業拡大への野心を抱く中国企業が世界の人材を引きつけ始めたのだ。

 10年にGDP(国内総生産)が世界第2位となった中国。急速な台頭はなぜ実現したのか。そして、日本企業と日本経済は中国の爆走によってどのような影響を受けることになったのか。

2000年代まで製造業がけん引、10年代からはサービス産業化
●中国の実質GDP成長率と産業別の成長率
出所:中国国家統計局、国際経済研究所
(写真=右上(小泉首相):毎日新聞社/アフロ、下:共同通信)

実は“迷走”した改革・開放後

 足どりを振り返ると、中国の経済改革は“迷走”の末にここまでたどり着いたことが分かる。一般的には、事実上の最高指導者だった共産党副主席、鄧小平が1978年12月に「改革・開放」路線へ転換したことが経済成長の起点となったとされる。しかし、実際にはそこから市場経済へまっすぐに動いたわけではなかった。社会主義の特徴である計画経済と市場重視との間で揺れ動いてきたのである。

 影響を受けた日本企業の一社が松下電器産業(現・パナソニック)。鄧小平は改革・開放への転換宣言直前に大阪の同社テレビ事業部を視察し、創業者である松下幸之助に「中国の電子工業の近代化を手伝ってほしい」と依頼した。これが元になって松下は87年に北京市にテレビのブラウン管生産会社を設立、その2年後から生産を始めた。

 82年の国家改革目標で「計画経済が主、市場調節は従」と掲げ、民間企業などによる自由な生産は補完的な役割にとどめるのが共産党の考えだったとされる。テレビの場合、当初は国内メーカー(カラーテレビ)を3社程度に絞って生産と流通を統制し、外資企業も絞り込みながら各社が共存するというもくろみだった。ところが、実際は改革・開放路線に乗って省などが次々と生産会社を設立し、一時は75社ものテレビメーカーが乱立する事態になったのだ。

 思わぬ変化を前に共産党は92年、計画経済から社会主義市場経済に路線を修正した。そして97年には共産党大会で「民間企業は社会主義市場経済の重要な要素」とまで位置付けた。

日経ビジネス2019年5月27日号 54~57ページより目次