1980年代のバブルは米国の圧力と金融緩和・自由化が裏にあった。株持ち合いなど日本特有のゆがみがさらにそれを膨張させた。バブル崩壊は、日本経済の実力値をあらわにしたにすぎないともいえる。

 「ここに豪華なディスコを造れば、大人の遊び場に飢えているサラリーマンやOLたちが飛びついてくる」

 1989年初め、折口雅博は東京・芝浦にある倉庫跡を見てこう直感した。後に人材派遣会社グッドウィルや介護施設会社コムスンを興し、起業家として知られる折口が、名をはせるきっかけになった瞬間だった。

 当時、折口は大手商社、日商岩井の電子通信機本部の営業員。屋内でボールを打って楽しむゴルフシミュレーション機器などを輸入販売する事業を発案し、ゴルフ練習場やゲームセンターなどに売り込んでいた。そんな中で知り合ったビルオーナーの一人が、所有するビルの1階にあった倉庫テナント跡の利用方法を相談してきたのだ。

 JR山手線の田町駅から歩いて10分近くかかるうえ、面積が約1200m2もあって天井高は8m。繁華街の雑居ビルの狭い一室が通り相場だった従来のディスコの立地とはかけ離れていた。だが、折口には強烈な興味しか湧かなかった。

 世は挙げてバブル景気の真っ盛り。「ヤンエグ(ヤングエグゼクティブ)なんて言葉がはやってたし、サラリーマンの給料も毎年上がるのが当たり前。みんな非日常感に飢えていた」(折口)。だから内装を思い切り豪華にした。音響機器装置などを企画する英国の総合サービス企業の社名を店名にして「ブランディングもしっかり進めていった」(同)。

<span class="fontBold">ジュリアナ東京は豪華ディスコブームを巻き起こした</span>(写真=読売新聞/アフロ)
ジュリアナ東京は豪華ディスコブームを巻き起こした(写真=読売新聞/アフロ)

 戦後日本経済最大の出来事の一つ、80年代後半のバブル景気。その熱気こそがディスコ、ジュリアナ東京を生み出した。「それまでにない大人の社交場を造りたかった。でも、徹底した豪華さや華やかさが人を引きつけると感じたのは、あの時代の雰囲気があったから」と折口は振り返る。

日銀内部で割れた利下げ継続

 バブル景気を数字で表してみるとすさまじい。日経平均株価は85年初めから89年末までに約3.4倍の3万8915円へ急騰し、株式時価総額は88年末には経済規模(GNP=国民総生産)がほぼ倍だった米国を上回った。地価も同様で、東京圏(首都圏)の商業地の公示地価は同期間中に約3.7倍に上昇。全国土の総評価額は米国の約4倍に達し、地価は最終的に91年まで上昇を続けたのである。

 この異常なまでの資産価格の急上昇は何が発火点だったのか。まず浮かび上がるのは85年9月のプラザ合意である。深刻な貿易赤字に苦しむ米国のために、日米英仏西独の5カ国(G5)は協調介入によるドル高是正を図った。これによってドル円レートは、合意直前の1ドル=240円台から約10カ月で150円台に急騰し、米国は輸出競争力の回復につなげた。西独マルクも状況は同様だった。

 合意ではさらに、日本と西独など貿易黒字国が思い切った内需拡大策を講じることも決めた。日本がとったのは思い切った金融緩和策だった。市中銀行の貸出金利に影響する公定歩合を86年1月にそれまでの5%から引き下げ、以後毎月のように下げて4月には3.5%にした。これが想定以上の効き目を発揮した。

 急激な円高に苦しんでいた輸出産業もちょうど「プラザ合意から半年たち、工場のライン従業員の作業動線を見直すなど、あらゆる分野で徹底的なコスト削減をして効果を表し始めた頃」(ある外資系証券の自動車業界担当アナリスト)。

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