昨年12月25日の宮崎県知事選挙で返り咲きを狙ったが、組織票を固めた現職に僅差で敗れた。2007年に県知事になった後、わずか1期4年で辞めたことへの批判が根強くあったと振り返る。謝罪し、2期目不出馬の「真実」を説明して回ったが及ばず、「今後の活動は全く白紙」と語った。

[政治家、タレント]
東国原英夫氏
1957年、宮崎県生まれ。80年専修大学経済学部卒業後、「そのまんま東」の芸名でタレントとして活躍。2007年、宮崎県知事選挙に出馬し当選。1期4年で退任した後、東京都知事選に出馬し落選。12年に衆院選で当選し13年辞職。

 「宮崎を地方のフロントランナーに」をスローガンに、県知事選挙に2度目の出馬をしましたが、あと一歩及びませんでした。敗因は私の力不足。資質、素養が足りなかった。4選を果たした現職の河野俊嗣氏は自民党県連、立憲民主党県連、公明党が推薦し、組織戦を展開しました。その厚い壁を越えられませんでした。

 多くのボランティアが支援してくださり、ミニ集会、街頭演説などを通して草の根の選挙戦を展開しました。県民から多くの期待の声をもらいましたが、結果的に勝てなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいです。ただ、支援者からお叱りを受けるかもしれませんが、今はすがすがしい気持ちです。やり切ったとの思いがあるからです。県政トップに誰がふさわしいかの選択肢を今回の戦いで示すことができたと思いますし、選挙に出たことへの後悔はありません。

政策論争に持ち込むのに時間

 新型コロナウイルス禍で経済が停滞する中、宮崎の存在感が薄まっていると感じ、このまま宮崎が沈んでいいのかと考えました。3期12年間の現県政の検証もされず、随意契約のような形で知事選が現職一択になるのは我慢できなかった。

 このままでは宮崎の民主主義は機能しない──。2022年8月、県政の対案や人柄で現職候補との違いを示したいと出馬を決意しました。「東国原八策」を打ち出し、スタートアップ支援や、宮崎が日本一となるような子育て環境整備などを訴えました。

 最大の敗因は、私の思いを県民の皆さんにうまく浸透できなかったことです。選挙戦が進むにつれ、徐々に私の考えを理解していただきましたが、07~11年に宮崎県知事を1期で退任し、2期目は出馬しなかったことへの謝罪に時間を割かれ、政策論争に持っていくのに時間がかかったのです。かつての東国原県政に対する不満や批判はありませんでした。ただ、「なぜ1期4年で辞めたのか」「宮崎を踏み台にした」という批判が根強くあった。それに対する私へのアレルギーは相当強かったです。

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