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長野冬季五輪で里谷多英選手が金メダルを獲得したスキー場が閉鎖になった。近年の雪不足に加え、長期的なスキー市場の低迷も重くのしかかった。日本中を沸かせた五輪のレガシーだが、「これも時代の流れ」と受け止める。

[長野市営飯綱高原スキー場支配人]
宮下 匡 氏
1966年長野県生まれ。84年にスキー場やキャンプ場などを運営する長野市開発公社に入社し、長野市営飯綱高原スキー場の業務などを担当。42歳で支配人となり、2月の閉鎖まで 11年間務めた。

 1998年に開催の長野冬季オリンピックのフリースタイルスキー・女子モーグルの里谷多英選手が金メダルを獲得した飯綱高原スキー場が2月16日、55年の歴史に幕を閉じました。私は長くこのスキー場で働き、支配人を務めてきました。これも時代の流れだと受け止めています。

 飯綱高原スキー場は長野市の中心部から車で25分ほどという手近な場所にあります。天気のよい日にはゲレンデから富士山を望むこともでき、長く地元の市民に親しまれてきました。長野市が所有し、市が最大株主である長野市開発公社が運営してきました。

 近くで生まれ育った私にとって飯綱高原スキー場は個人的にも思い出深い場所です。小学生のころからずっと滑ってきましたし、アルペンスキーをやっていたこともあり、長野市開発公社の職員となってからしばらくは場内のパトロールを担当。30年以上もスキー場と苦楽をともにしてきました。

ピークは23万人が利用

 スキー人気が高かった80年代はとにかく忙しく、84年度のピークには利用者数が23万人ほどいました。当時はリフトが8本あり、季節限定のスタッフも多数いて、とにかくにぎやかな毎日でした。スキーブームが終わると利用者は少しずつ減少しましたが、それでも90年度には16万8000人ほどが利用していました。

 91年には長野五輪の開催が決定。自分がよく知っているスキー場がオリンピックの会場に選ばれ、「すごいなあ」と思ったことを覚えています。五輪期間中はスキー場内でずっと寝泊まりしながら大会をサポートしましたので、とにかく大変でした。圧雪車でコースづくりをしたり荷物の運搬をしたりするなど、裏方に徹する毎日でした。

 金メダルを獲得した里谷選手は中学生のころから飯綱高原スキー場で開催の大会に出場しているのを知っていましたので、応援していました。

 冬季五輪史上、日本女子で初の金メダルであり、五輪後にそのときのコースは「里谷多英コース」と命名。ゴール地点には記念碑も設置。コースは一般のスキーヤーにも開放しました。

 しかしバブル崩壊後のスキー客の減少には歯止めがかからず、飯綱高原スキー場も逆風から逃れることはできませんでした。オリンピック会場になったモーグルのコースは大きな話題になったのですが、逆に言えば本格的なコースであるため、一般のスキーヤーが滑るのには難易度が高い面もありました。いつしか選手レベルの上級者だけが滑るだけになり、リフトの稼働率は上がりませんでした。

 2006年には飯綱高原スキー場のあり方を見直す議論がスタート。背景には市町村合併もあったと聞いています。それまで市営のスキー場は飯綱高原スキー場だけだったのが、合併を契機に3カ所になりました。運営を見直す中で経営が安定しなかった1カ所が廃止になり、飯綱高原スキー場をどうするかについても話し合われました。

 その結果、営業するエリアの縮小が決定し、稼働をストップしたエリア内のモーグルのコースは整備が中断となりました。しかし限られたエリアでの運営はそれはそれで難しく、次のシーズンからは、いったん営業をやめたエリアを開発公社の自主事業という位置付けにして再び運営することになりました。これに伴い、里谷多英コースの名称は残しながらも、モーグルの上級者向けから初心者や子供も滑ることができるフラットなゲレンデに変更しました。