全5934文字

年間売上高が最大1兆円近くに達する可能性を秘める新しい抗がん剤を送り出した。がん細胞に薬物を直接送り届ける技術に磨きをかけた成果だが、もとはがん領域に強くない製薬会社。強みの領域を作り替えるため、会社を丸ごと変える覚悟で挑んだ取り組みが今、花開く。

東京・品川にある品川研究開発センター。2010年6月にワーキンググループが立ち上がり、これまでに7つのADCを作ってきた

 米食品医薬品局(FDA)が異例の対応をした。2019年12月23日、第一三共からの申請を同年10月に受理したばかりの抗がん剤「エンハーツ」(一般名はトラスツズマブデルクステカン)を承認したのだ。FDAは当初、通常より短い6カ月程度で審査するとしていたが、わずか2カ月のスピード承認となった。臨床試験で疑いようのない効果を示したからに他ならない。日本でもほぼ同じデータを基に19年9月に申請され、20年3月に承認された。

薬物は細胞外に漏れ出して周辺がん細胞も殺す
●エンハーツががん細胞を攻撃する仕組み

 エンハーツは抗体薬物複合体(ADC)と呼ばれる新しいタイプの抗がん剤だ。がん表面に現れるたんぱく質にくっつく抗体に化学合成で作り出した薬物を結合させた構造を持つ。いわば、抗体という乗り物に乗った薬物が、がん細胞に直接、運び込まれ、がん細胞を攻撃する仕組みだ。

 化学合成で作った薬物は、薬効が高い半面、がん細胞だけでなく、正常な細胞にも影響を与えるため副作用を起こしやすい。一方、抗体を使った医薬品は、特定のがん細胞だけを直接、攻撃するので副作用は少ないが、化学合成薬に比べて薬効が劣る。

 そんな化学合成薬と抗体医薬の利点を組み合わせたのがADCだ。第一三共のエンハーツは、一部のがん細胞の表面に現れる「HER2(ハーツー)」を標的にする。HER2を狙う抗がん剤はこれまでもあったが、それらの薬が効かなかった乳がんに効果を示した。

 第一三共では今後、HER2が細胞表面にある胃がんや大腸がん、肺がんなどにも使えるようにしていく計画だ。グローバル販売に向けて19年3月に英製薬大手のアストラゼネカと提携。アナリストの中には、エンハーツの売上高が年7000億円から9000億円程度に達すると予想する声もあるほどだ。

 エンハーツの「すごみ」は、抗体にくっつける薬物の数の多さにある。同じHER2を標的にしたスイスの製薬大手ロシュのADC「カドサイラ」の平均3.5個に対し、第一三共のエンハーツは8個。抗体医薬の研究に詳しい東京大学医科学研究所の津本浩平教授は、「業界内で誰も薬物を8個付けたADCをつくれるとは考えていなかった。常識を覆す技術を実現した」と指摘する。

 カドサイラは1つの抗体につく薬物の数が少ない上、2個、3個、4個、5個などとばらつきがある。エンハーツはほぼ確実に8個の薬物をつけられる。

 この差は抗体と薬物をつなぐ「リンカー」と呼ばれる“ひも”の設計力にある。リンカーは、アミノ酸をつなげてつくったものだが、第一三共はこの設計にとにかくこだわった。標的とするがん細胞表面のたんぱく質にくっつく前に切れない強度を持ちながら、がん細胞内にある酵素で切断され、薬物が薬効を発揮できるようにした。

 第一三共のADCは研究所内の草の根的な取り組みから生まれたものだ。

日経ビジネス2020年5月25日号 46~50ページより目次