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 こわもてで知られる経営者でしたが、仕事を離れれば私には優しいおじいちゃんでした。ある企業の中興の祖と言える存在のAさん。国内の同業他社との合併を断行、外資や異業種大手と提携するなど驚く打ち手を次々繰り出したカリスマ的な経営者です。

 真面目で一本気な性格からでしょう。部下の仕事ぶりが気に入らないと資料や灰皿を投げつけるほど激高されました。それでも本来の人柄と経営手腕で社外役員などの役職は引く手あまたでした。企業人としてはこれ以上の成功はないというほどの輝きがありました。

 ところが、70歳代半ばで奥様に先立たれます。思い出話を穏やかな表情でしてくださいましたが、ソファの木製の肘掛けを爪が食い込まんばかりに握りしめていました。最愛の方だったのでしょう。「仕事ばかりで、かまってあげられなかった」と静かにつぶやいていました。

 リタイアされた後は「駅前までバスに乗って英会話を習いに行く」と張り切っておられましたが、奥様が亡くなられると間も無くして認知症の症状が表れ、見る見る進行していきました。子供家族と同居ができず、一人暮らしの自宅周辺で奇行が目撃されたり、施設に入れられても抜け出してきてしまったり。完璧主義だけにご本人もさぞかし、もどかしかったことでしょう。

 今号の特集は「リタイア後の人生」がテーマです。もうお会いすることはありませんが、果たしてAさんは幸せだったのだろうかと時々考えてしまいます。企業人にとって幸せとは何だろうかと。

日経ビジネス2020年2月17日号 7ページより目次