糖質制限の影響が及ぶのは、飲食業界の中だけとは限らない。懸念されるのは、間違ったやり方が広まることで、サービスの低下が起きる分野があることだ。先進企業ほどその重大さに気付き、本気で対策を立て始めている。
タクシー運転手は牛丼やファストフードなど糖質がたくさん含まれた食事が多い。代表的なチェーン店の看板(写真はイメージ)(写真5点=菅野 勝男)
「四十数年ずっと無事故、無違反でしたからね。本当にショックで」。大阪で個人タクシーを営む足立祐介氏(仮名)は、生まれて初めて起こした物損事故をこう振り返る。
事故は8月下旬、立て続けに2度起きた。まず、自宅がある大阪府豊中市内の狭い路地で路肩に車を寄せた時、縁石にホイールが接触。さらに数日後、中国自動車道に上がる際、料金所のゲートにミラーをぶつけた。約5万円の修理代に加え、休業日の売り上げ減で10万円以上の損失になったという。
「原因は、糖質制限ですわ」。足立氏はぶぜんとした表情でこう話す。
脳梗塞を機に実践したが…
糖質制限を始めたきっかけは2015年秋、脳梗塞を患ったのがきっかけだった。幸い症状は軽く2週間の入院で済んだが、診察の過程で医師から高血圧と肥満の危険性を懇々と聞かされ、糖質制限を勧められた。本格的に始めたのは今年に入ってからだ。
それ以降、何となく集中力がなく、送迎先を間違えたり携帯電話を忘れたりすることが増えた。「考えたら、主食を食わんなんて無謀でしょ。周りにも糖質制限を始めてから、気が散るようになったと言う運転手は多い」(足立氏)。
この足立氏の体験談が本当だとすれば事は重大だ。今後も糖質制限が普及しタクシー運転手も実践者に加わってくると、公共交通の安全に支障を来すことになってしまう。
果たして本当に、糖質制限をすると集中力が低下するのか。北里研究所病院糖尿病センター長の山田悟医師は「糖質制限のつもりで間違ったダイエットを実践すれば、体調に変化が出てもおかしくない」と指摘する。
間違いの代表は、糖質を抑える過程で、生きていく上で不可欠なだけのエネルギーも摂取しなくなってしまうケースだ。足立氏はこのパターンで、それまで取っていた夜食をすっぱりやめてしまった。糖質制限では、これまで主食で取っていたエネルギーを減らす分、脂質やタンパク質をこれまでよりも増やす必要がある。それなのに、ひたすら糖質を抑えるだけで、結果としてエネルギーも減らしてしまったのだ。
もともと、タクシー運転手は、低糖質な食生活を送りにくい環境で働いている。東京で個人タクシーを営業する大倉悟氏(仮名)の場合、糖質制限を実践する上で障害となるのは、午前2時前後、もう一踏ん張りするために勤務中に取る夜食だ。「夜食の条件は、24時間営業で、街道沿いの店で、駐車場があって、短い時間で食べられること。条件を満たすのは自分の場合、『吉野家』『すき家』『ゆで太郎』しかない。糖質制限するなら夜食を抜くしかないんですよ」(大倉氏)。
ただし、そうした環境面でのハンディを工夫で乗り越え、正しい方法で実践すれば、糖質制限で集中力が落ちることはない、というのが山田医師をはじめとする糖質制限を提唱する専門家の意見。その証拠となるのが、タクシー大手の日の丸交通(東京都文京区、富田和孝社長)の取り組みだ。
同社は昨年から、糖質制限を活用し運転手の健康を増進する取り組みに着手した。メタボリックシンドロームなどの問題を抱える運転手を30~40人募り、3カ月にわたって糖質制限を実施。1日の食事を記録し内容を専門医がチェックする、というライザップさながらの本格的なものだ。その結果、糖質制限した運転手のヘモグロビンA1c(血中の糖の値)は、平均で0.8~0.9%降下した。
日本のタクシー業界では年々、運転手の健康が深刻な問題となっている。しかしただ「健康増進」を呼びかけるだけでは、それこそ運転手が自己流の糖質制限を実施し、事故の温床になる可能性も否定できない。
その点、同社は正しい方法を講義するとともに、運転手が糖質制限を実施する上で最大の課題となる「夜食」についても、コンビニの低糖質食品などを紹介。勤務中に牛丼やラーメンなどを胃に流し込むこともやめさせた。
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