会社一筋に生き抜いた末、ようやく訪れた定年退職後の日々。悠々自適な理想の「第2の人生」を思い描くも、そこには予想外の罠が待ち受けている。
兵庫県姫路市にある臨済宗妙心寺派の龍門寺。右から5人の修行僧は皆、企業で定年まで勤め上げたサラリーマンで、60歳を超えている(写真=菅野 勝男)
定年ホームレスの憂鬱
午前4時、まだ夜が明けぬうちに起床。「朝課」と呼ばれる読経をこなし、白湯で薄味のおかゆをかき込む。太極拳、座禅、作務(掃除)…と、午後9時の就寝までひと時も気が休まる暇はない。
兵庫県姫路市にある臨済宗妙心寺派の名刹・龍門寺。ここで修行を積む「僧侶の卵」たちがいる。一見すると、普通の禅寺。だが、大きく異なるのが、住み込みで修行する5人全員が60歳を超える企業の定年退職者という点だ。化学メーカーや通信会社、建設会社など国内の名だたる企業でサラリーマンとして働き、定年後に仏門をたたいた。
退職者400人が修行に殺到
妻や孫らに囲まれてのんびりと余生を過ごすという道を選ばず、なぜわざわざ厳しい修行に身を投じるのか。ある修行僧はその理由をこう話す。
「定年退職した翌日はよかったけれど2日、3日とたつと急に不安になりました。会社勤めをしている時にあれほど悩まされた電話が1本もかかってこないんですよ。あと数十年間もこんな生活が続くのかと思うとゾッとしました。少しでも社会の役に立ちたい。そんな思いで龍門寺の門をたたきました」。定年後30年も生きる時代。人は無為に過ごすことに耐えられるようにはできていないのだ。
これは龍門寺が2014年から始めた、定年退職者だけを対象にした修行プログラムである。高齢に配慮し、町中で施しを受けて回る「托鉢」や、1日の座禅の回数を減らすなど、修行内容は“緩め”に設定されているが、1年間の修行期間の後、本山で読経などのテストに合格すれば、「看坊職」という肩書が得られる。仏教界で問題になっている、住職がいない「空き寺」の留守番役となれるのだ。
開眼寺(長野県千曲市)住職の柴田文啓さんは、自身の経験から定年退職者向け修行プログラムを考案した(写真=林 安直)
プログラムを考えたのは、同じ妙心寺派で長野県千曲市にある開眼寺の住職、柴田文啓さん(81歳)。横河電機で米ゼネラル・エレクトリックと医療機器を扱う共同出資会社を立ち上げ、最後は横河の米現地法人社長まで務めた第一線のビジネスパーソンだった。定年退職後の65歳で出家し、13年間空き寺だった開眼寺の住職になった。「定年退職した人の多くが何をして毎日を過ごせばいいのか悩んでいます。目的を持って生活できる場が求められていることを強く感じました」(柴田さん)。
龍門寺が修行プログラムを始めて約2年という短期間に400人を超える応募者があった。定年までは会社という居場所があるが、そこから放り出された時、多くの人は気兼ねなく過ごせる“ホーム”がない現実に直面する。だからこそ定年退職者にホームを提供するプログラムに希望者が殺到しているのだが、人気の秘密はそれだけではない。
田舎のコミュニティーに高い壁
のんびりした生活を夢見て都会から田舎に移住する人は多い。しかし現実には地域社会にいきなり溶け込むのは容易ではない。ところが、「僧侶」という肩書さえあれば、地縁のない落下傘でも地域社会は受け入れてくれるのだ。
日系グローバル企業の欧州子会社トップを務めていた川上和夫さん(仮名、60歳)。同世代の友人が相次ぎ倒れたことをきっかけに、ストレスの多い生活に見切りをつけようと決意した。
トップの任期は1年残っていたが、会社が導入した早期退職優遇制度に手を挙げた。「田舎生まれだから東京のあくせくした生活はきつい」と伊豆半島に移住、農地を借りて野菜作りに精を出す生活が始まった。
広大な集落に住むのは約30世帯。跡継ぎがいる家庭はほとんどなく、廃屋や荒れた農地が目立つ。「ならば自分が後継者に」と農地購入を申し出たが地元の農業委員会が立ちはだかった。隣接農地所有者が首を縦に振らないのだ。
集落の寄り合いに参加してみた。「もっとこの地を盛り上げられないかと思っているんですよ」。酒を飲みながら思いをぶつけると、酔った地元住民にこう怒鳴られた。「昨日今日来たよそ者が何を言うかっ」。
川上さんにとって幸いだったのは、意外にも就職した2人の子供の存在だ。移住するので都内にある自宅を売り払うことを考えたが、「会社に通うのに便利」という子供の願いを聞き入れて残した。おかげで今は1年の半分を東京で過ごす生活。難しい伊豆でのご近所付き合いに悩む日はそれだけ減った。
「伊豆の家の近くに完全移住した人がいる。その人が言うんです。『川上さんはいいなあ。帰るところがあって』と」
夫源病の恐怖、家も居場所なし
もっとも川上さんのように、それまでの生活に区切りをつけて、セカンドライフを歩み出す前に、まずは、これまで空けっぱなしだったマイホームでの生活を満喫しようとする人も多いだろう。苦労をかけ続けてきた伴侶とのコミュニケーションを密にしようと考えるのは自然なことだ。
しかし、事はそう簡単ではない。
「夫が家にいるようになってから、頭痛とめまいがするようになった」と訴える50代後半の主婦。離れて暮らす娘に電話で相談したところ「それって夫源病じゃない?」と指摘された。ネットで調べると症状がピタリと合致した。
夫が原因とは穏やかならざる病気だが、2011年に大阪樟蔭女子大学の石蔵文信教授が命名したもの。夫の言動や過度の依存、干渉に対する不平・不満がストレスとなって、妻の身体に起こるめまいや動悸、頭痛、不眠などの症状を指す。ちなみに、逆パターンで妻源病という言葉もある。
では、退職後に居場所がない「定年ホームレス」はどこにいるのか。図書館と裁判所、そして公園。お金のかからないこの3カ所が“聖地”らしい。取材班はその実態を探ってみた。
平日朝の図書館。裁判所、公園と並び、居場所がない定年退職者たちの憩いの場となっている(写真=的野 弘路)
東京都下のある区立図書館。早朝、入り口前に高齢者がぽつぽつと姿を見せ、開館の午前9時には数人が集まる。門が開くとみな足早に閲覧室に向かう。ゆったりと過ごせる席を確保するためだ。ビニール袋などを置いて、席を押さえれば、閉館の午後8時頃までの過ごし方は決まったも同然だ。
有名人が出廷する裁判の傍聴券を求めて集う人々。裁判所には多くの定年退職者が足を運ぶ(写真=Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
東京・霞が関の東京地方裁判所。「罪名は地味だけど、意外とこっちの裁判は面白そう」「次はあの裁判官の単独審だから説諭が期待できるな」。所内に置かれたベンチで高齢者らが談笑している。彼らが突き合わせるのは、面白い裁判に関する情報。裁判所通いがもう何年にも及ぶからなのか、極めて専門的な会話が飛び交う。
「東京都シルバーパス」を使い、始発から最終便までひたすらバスに乗り続けている男性を発見した。家には妻がおり、息子も家族を関西に残して東京に単身赴任しているという。だが、「家にいても気詰まりなだけ。バスに乗っていたら色々な人の身の上話が聞ける。自分が外とつながっていることを実感できるのです」。
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