成長が続く間、子会社が次々に誕生し、グループは自然と拡大していく。しかし成熟期に入ると悩みが噴き出す。約1000社の連結子会社を持つ日立製作所も同じだ。まずは巨艦を率いた川村隆・名誉相談役の話を聞こう。

 日立製作所の子会社経営は「君臨すれども統治せず」だった。資本は持つが統治はそれぞれの会社に任せる。子会社は独立心が養われる一方、例えば海外資本に食われるといった心配をすることなく事業拡大ができたわけだ。

 しかし2008年に倒れそうになった。もし「第2リーマンショック」が来たら日立は終わる。そこまで追い詰められた。「統治せず」なんて言っていられなくなって、「100日プラン」の中でグループ経営を変えると決めた。

日立製作所 名誉相談役
川村 隆氏
日立製作所副社長を務めた後に子会社会長に転じていたが、2009年に会長兼社長として本社に戻り、日立グループの事業再編を断行する。2010年からは会長専任。2014年に相談役。今年6月、名誉相談役に(写真=清水 真帆呂)

 日立は2009年3月期に製造業で最大となる7873億円の連結最終赤字を計上。当時、子会社の会長として経営の一線から身を引いていた川村隆氏を日立本体に呼び戻し、再建を託した。

 川村氏は同じく子会社から本社副社長に復帰した中西宏明・現会長らと構造改革プランを練り上げ、実行した。

 中西君と「日立のコアコンピタンスは何か」なんて話を何度もしたよ。うちの筋肉や骨は社会インフラ事業である。でも筋肉や骨だけじゃだめで、脳神経系が必要。つまり情報通信システムは不可欠。一方、テレビなどのデジタル機器は、うちが本当に得意とする領域ではないと結論付けた。

 事業整理には反発もあったが、それを許していると会社が潰れる。会社を直すときにはポートフォリオの変更は必須。どんなにしんどくてもそれをやるのがトップの仕事だと思った。

 その昔、日立は「野武士集団」と呼ばれた。グループ会社それぞれが強い独立心を持って成長を追い求めたからだ。しかし低成長時代に入って、かつての強みは弱みとなり、「総花経営」と揶揄されるようになった。

 川村氏は「近づける事業」と「遠ざける事業」という表現を使って事業を選別。米IBMから買収したものの、業績が一向に上がらず、中西氏が赴いて立て直したハードディスク駆動装置製造事業も「遠ざける」対象となり、2012年に米ウエスタン・デジタルに売却した。一連の作業は創業100年を迎える日立が初めて本社に求心力を持たせようとした試みだったのかもしれない。

 日立金属の社長だった持田(農夫男)君を本社副社長に迎え入れる人事は極めて異例。本人には申し訳ないことをした。社長と副社長では仕事の面白みが違うからね。それでも断行したのは、グループの中で日立金属が優れて欧米的だったからだ。将来の社長候補を北米の町工場のトップに送り込んで経営センスを養わせるとかしていた。

 実際、持田君は10年ぐらいの米国経験があった。だいぶ崩れたとはいえ日本企業にはなお年功序列が残っている。そんな習慣のない米国で、彼はどう会社を大きくしたのか。学べることは非常に多かった。

 川村氏は本社に求心力を持たせる一方で、巨艦を迅速に動く組織に変える作業にも着手した。ともすれば「日立製作所なにするものぞ」という反発心すらあるグループ御三家の一角、日立金属の生え抜き社長だった持田氏を本社副社長にした人事(2016年6月に日立取締役退任)はその一環だ。

 2013年、日立金属は同じく御三家の一つだった日立電線と合併した。日立電線は2013年3月期まで5期連続で最終赤字を計上。銅管事業からの撤退などリストラを進めていた。独立心の強い日立電線を日立金属が取り込む再編は「持田氏が日立本体にいたからこそできたこと」と日立関係者は言う。