JR東海は地元の熱意に応え、6年半ぶりに赤字の名松線を復旧した。日本の交通インフラの崩壊を防ぐためにも、新たな収益モデルの構築が急務だ。

「ほれ、サルがいるぞ!」「どれどれ」「ぎょーさんおるな」
2月中旬の昼下がり。三重県の松阪市から津市美杉町に向かう東海旅客鉄道(JR東海)の名松線の下りの車内は沸き立った。1両編成にいる30人ほどの乗客のほとんどが身を乗り出して窓の外を眺め、見知らぬ人同士が「サル談義」に花を咲かせ始めた。
夕方、松阪市に向かう上りの電車内は多くの高校生が乗り込み、男子はスマートフォンゲームに興じ、女子は音楽を聴く。1両編成の座席が満席になり、50人ほどが乗車していた。
名松線は今でこそ地元客や観光客などで、にぎわいを取り戻しつつあるが、何度も廃線が検討されてきたローカル線だ。6年半の休止期間を経て、2016年3月に復旧したので「奇跡の名松線」と呼ばれている。
1日90人の乗客が復旧で倍増
1935年に全線開通した名松線の沿線は、かつて林業で栄えていた。道路網が発達していなかったため、住民の通学や通院、買い物などに利用され、鉄道は住民たちの貴重な足であった。
その後、安価な輸入材に押されて林業は衰退。道路網も整備され、名松線の利用者は激減した。68年には国鉄諮問委員会が提出した意見書により全国の赤字83路線の一つとして廃止を促された。その後も度々、廃止の対象路線とされ、2009年には1日当たりの乗車人数が平均で90人まで落ち込んだ。
同年10月には、そんな寂れた路線を台風が直撃。約40カ所で土砂崩れや路盤流出が生じ、廃線は確実の情勢だった。全国各地で起きているような廃線の流れにのみ込まれるように見えた。
この流れを変えたのは、住民たちの熱意だった。





JR東海が翌年10月29日にバス代行の方針を打ち出すと、住民たちは素早く動く。当日夜10時に各自治会の代表者が集まって反対を表明。翌朝8時半にはJR東海の支店に押しかけ、その足で津市長にも会い、反対意見を示した。
当時、「名松線を守る会」会長だった結城實氏は振り返る。「廃線になれば過疎に拍車がかかる。必死だった」。美杉町は人口5900人だったが、町外の市町村にも協力要請を続け、11万6000人の反対署名が集まった。結城氏は名古屋市に赴き、国土交通省の中部運輸局とJR東海本社に署名を提出した。
この熱意を受け、三重県と津市、JR東海が3者協議を重ね、関係者の反応が変わっていく。最終的に三重県が治山工事、津市が治水工事を負担することを条件に、JR東海も名松線の復旧を受け入れることになる。津市の前葉泰幸市長は「地元が1つになっていたので、財政出動ができた」と話す。
美杉町は作家、三浦しをん氏の小説『神去なあなあ日常』(徳間書店)のモデルであり、同氏の父親である三浦佑之氏は同町の出身だ。三浦佑之氏は、『村落伝承論』(五柳書院)の序章で、「それ(鉄路)を剥ぎとってしまう行為は村落を潰してしまうこと以外に何の意味も持たない」と記している。
復旧に向けて見逃せないポイントは、運行主体がJR東海だった点だ。名松線は住民の熱意があるとはいえ、赤字路線であることは変わりない。これが財務の厳しいJR北海道であれば、同じように守ることはできないだろう。
JR東海はドル箱の東海道新幹線を抱え、JRの中でも圧倒的な高収益を誇る。だからこそ、赤字路線の住民の意気に応えることができた。国鉄時代は路線別の採算管理の考えがあったが、JR東海は在来線を東海道新幹線へのアクセス鉄道ネットワークと位置づけ、赤字の在来線であっても新幹線への利用増を促すという方針を取る。
2016年3月26日の復旧式典には多くの住民や鉄道ファンが集まり、乗客は急増した。だが、「継続的に乗ってもらうのが課題だ」(前葉津市長)。利用者が増えなければ、維持管理コストを回収できず赤字は膨らんでしまう。
そこで地元の人々が名松線に積極的に乗っている。津市自治会連合会の美杉支部会長の赤堀嘉夫氏は定期的に地元の人々を集めて、名松線に乗るツアーを企画している。冒頭の車内のシーンで「サルがいる」と言ったのは赤堀氏だ。地元の人々の努力もあり、復旧後の1日当たりの利用者数は平均で180人で、改善の兆しが出ている。
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