評者が高校生だった1970年頃は、難航する日米繊維交渉の模様をテレビが連日トップニュースで報じていました。疑問だったのは、当時のアメリカは世界の超大国です。それがなぜ、日本のごとき弱小国を相手にセコイことを言い出すのか。正直、理解に苦しみました。駐米大使の動きも歯がゆく、頼りなくさえ映ったものです。

 ところが、その「子供の使いじゃあるまいし」と思えた牛場信彦大使こそ「戦後を生きた外交官の中でも、最も存在感の大きかった人物」(北岡伸一)と評されるプロ中のプロであり、人間的スケールにおいても、また起伏に富んだキャリアの上でも興味のつきない傑物だということが分かってきました。戦前・戦中の氏は「我が国が生き残る道はドイツとの連携にある」と信じて日独伊三国同盟を推進した「枢軸派」です。それゆえ、終戦後間もなく外務省を追われ、東京裁判では戦犯として起訴された大島浩元駐独大使の弁護人を引き受けます。ところが、推挙されて公職に復帰するや、通産省通商局長、外務省に戻った後は、戦後処理や経済外交の最前線に立ち、やがて外務事務次官、駐米大使を歴任。その後も対外経済相、日米賢人会議日本側座長などの要職を務め、激しさを増す日米経済摩擦の矢面に立ちます。まさに八面六臂、「壮烈な戦死」(中曽根康弘)と言われるほどの苛烈な生涯を貫きます。

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