「嵐の前の静けさ」

 「影響は今のところ全くない」。家電メーカー、英ダイソンのマックス・コンツCEO(最高経営責任者)は言い切る。同社がロンドン市内に構える直営店は連日、多くの客でにぎわっているという。LCC(格安航空会社)大手、アイルランドのライアンエアーのマイケル・オライリーCEOも、「ロンドンを目指す乗客が飛躍的に増えた」と語る。英EU離脱決定の影響を受けると見られていた同社の2016年9月期の中間決算は、増収増益を記録。乗客は減るどころか、むしろ前年同期比で12%増加した。

 予想外の事態に、今年10月、IMFは1.7%に引き下げた成長率の見通しを1.8%に上方修正した。

 離脱派の政治家の一部からは、「経済が落ち込むという残留派の主張はやはり脅しだった。英国経済には底力がある」(英国独立党のポール・ナッタル議員)と自賛する声も上がる。

 もちろん、経済が悪化する不安が去ったわけではない。「今は嵐の前の静けさ。離脱交渉すら始まっていないのに、英国経済は強靭だという主張はばかげている」。英国立経済社会研究所のジョナサン・ポルト氏はこうクギを刺す。

 では、離脱が経済に与えるインパクトはどの程度になるのか。左右するのは、英国がEUとの交渉で何を優先するかにかかっている。

 交渉項目は多岐にわたるが、目下の焦点は以下の2つに集まる。一つは、EU加盟国から流入する移民に制限をかける「移民制限」。もう一つは、EUとの経済的な結びつきをこれまで通り維持する「市場アクセス」だ。

 前者の移民制限は、6月の国民投票で最大の争点となった。一方の市場アクセスの確保は、産業界が維持を強く要望している。

 今のところ、英国政府は移民制限を優先すると見られている。「二度と移民のコントロールを失ってはならない」。テリーザ・メイ首相は今年10月の保守党大会で、市場アクセスよりも移民制限について踏み込んだ発言をした。EU離脱を担当する3人の閣僚はいずれも、国民投票前から離脱を支持し、移民の管理を主張してきた。

強硬離脱の可能性が高まる
●EU離脱を巡る主要閣僚の主な発言

テリーザ・メイ首相
はっきりさせよう。EUを離脱するからには、英国が移民の流入をコントロールできるようにする必要がある。欧州司法裁判所の管轄下に戻ることもない
10月2日
保守党大会での演説から


デービット・デービスEU離脱相
英国は離脱後も、これまで通り自由貿易の先頭に立ち、自由貿易を守る国であり続ける
10月31日
在英日本大使館主催のイベントでのスピーチから


ボリス・ジョンソン外務相
英国のEU離脱は大成功に終わるだろう
11月3日
ロンドンで開かれたイベントでのスピーチから


リアム・フォックス国際貿易相
離脱後、世界貿易機関(WTO)の独立会員となった際には、自由でオープンな貿易方針を名誉としてさらに促進したい
9月27日
WTO会合でのスピーチから

 移民制限を優先すると市場アクセスは後退する可能性が高い。そうなれば、英国を拠点にしてEU加盟国に事業を展開する企業に影響を与えかねない。

 Hard Brexit(ハードブレグジット)──。「移民制限を優先した離脱」を意味するこの言葉がメディアで盛んに使われるようになった。仮にハードブレグジットに突き進んだ場合、英国に拠点を置く企業のEU市場へのアクセスはどうなるのか。

Hard Brexit (ハードブレグジット)

 英国がEUから離脱「Brexit(ブレグジット)」する際の交渉姿勢の一つ。
 離脱を巡る争点は、「移民制限の強化」と「EU単一市場へのアクセス維持」のどちらを優先するかにある。前者を優先すると、EUとのビジネス条件が著しく悪化することから、英国を拠点とする企業の流出が懸念されている。経済が急激に悪化する(Hard Landing)可能性があることから、こう呼ばれる。
 Soft Brexitは市場アクセスを重視する交渉姿勢を指す。

 具体的には、①英国で免許を取得すればEU加盟国全域でビジネスが可能になる「シングルパスポート」②EU市場との貿易で関税が課されない「シングルマーケット」③EU加盟国のパスポートを取得していれば英国でも仕事ができる「人材」の自由な移動──の3点に影響を与える可能性がある(詳細は、2016年6月20日号のスペシャルリポートを参照)。

2017年1月から続々移転?

 英国政府の強硬姿勢が次第に明らかになるにつれ、拠点を英国外に移す企業が現れ始めた。最も顕著なのは、金融業界だ。今年10月、ロシア大手のVTB銀行が、先行きの不透明感を理由に欧州の拠点をロンドンから移転させると発表した。移転先は、フランクフルトやパリなどを検討している。

 英法律事務所クリフォード・チャンスのフィリップ・ソータ氏は「多くの金融機関が、VTB銀行に続く可能性がある」と言う。先に触れたシングルパスポートが今後も維持されるかが不透明なためだ。これが維持されない場合、英国がEUを離脱した後は、EU加盟国で事業免許を取り直す必要がある。

 ソータ氏は「EU加盟国で免許を申請し、取得するまでには最低でも2年はかかる」と言う。英国政府は2017年3月までにEUとの離脱交渉を始めるとしており、「交渉期限となる2年後の2019年3月までに事業免許を取得するためには、遅くとも2017年1月から準備を始めなくてはならない」(同)。

 EU加盟国で銀行免許を取得するためには、書類上だけでなく、物理的にもEU加盟国に中核拠点を置く必要がある。移転先のEU加盟国で金融機関の免許申請が殺到すれば、審査の時間が長引く。判断が遅れるほどオフィス確保も困難になると見込まれるため、2017年1月以降の金融機関の動向に注目が集まっている。

 同様の動きは証券や保険業界にも広がる。「移転には1年半は必要。半年は交渉を見守るが、進展がなければすぐに移転を決断するように促す」。保険会社の移転計画策定支援に携わるコンサルティング会社の担当者はこう語る。

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