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安売り酒蔵が生まれ変わる

(写真=太田 未来子)

 和歌山市から電車で15分あまりの海南市にある日本酒の酒蔵、平和酒造。4代目に当たる山本典正専務は大学卒業後、働いていた東京の人材派遣会社を退職し、04年に26歳で家業に戻った。その時、直感したという。

 「このままだとオヤジの代は逃げ切れても自分の時で終わりだな」

 何がそう思わせたのか。1928年に創業した実家はもともと、灘(兵庫県)や伏見(京都府)の大手日本酒メーカーから製品の一部生産を委託される下請けだった。それを80年に跡を継いだ父親が大きく転換。スーパーなどで販売される紙パック入りの低価格日本酒の生産に乗り出したのである。

 そのおかげで72年以来、出荷量が減り続ける日本酒市場の中でも安定した業績を残してきた。「しかし、このまま市場が小さくなれば、低価格商品ですら大手しか生き残れなくなる」。典正氏はそう感じた。

 考えたのは質が高くてファンに安定的に愛される酒造り。国内市場が縮小しても、それなら生き残れるとみたからだ。しかし現実は厳しい。理想の日本酒造りは苦難の連続だった。最も苦労したのは社内の意識を変えること。

 「酒造蔵の清掃を徹底してわずかなカビも落とさなければ日本酒の香りが損なわれる。こうじ造りの機械も減らして、手作りにこだわろう」。こう言い出しただけで、12人ほどいた社員からは総スカン。「なんでそんな面倒なことをするんだ」「休みも少なくなるし、ごめんだ」。次第に社内で孤立していく。飲み会で不満を持った若手社員につかみかかられることもあった。

 2007年から地方の酒蔵としては珍しい大卒採用も始めたが、こちらも猛反発を食らう。長期的に酒蔵を伸ばしていく意欲のある人を集める考えだったが、古参社員の不満を聞かされ、「自分の期待と違うと感じる」と辞めていった。だが、あきらめずに社員と面談を続けるうちに気が付いた。「徒弟的な仕組みや将来がどうなるか分からないことに不満が鬱積するのでは。もっと若者が自らを伸ばせるようにしないと希望を抱けない」と。

 そこで各工程ごとに作業マニュアルを作って全員に配布し、誰でも自ら学べるようにした。11年のことだ。パソコンも全員に渡し、発酵状態や温度、アルコール度数などを各工程ごとにリアルタイムに見られるようにするなど情報の均一化も図った。徒弟的な仕組みを一変させることでやる気を引き出したのである。

 その頃から新卒社員は定着するようになり、日本酒の品質も上がっていった。15年からは全国新酒鑑評会で金賞を4年連続受賞するなど高い評価を得るまでになった。社員と向き合うことで家業を革新したのである。

低価格販売から高品質・ブランド販売へ
●平和酒造の歴史と山本典正専務の改革
出来事
1928年故・山本保氏が日本酒造りを開始
52年戦時統制でできなくなっていた日本酒造りを2代目の故・保正氏が再開
80年娘婿の文男氏が3代目に。低価格の紙パック入り日本酒に力を入れる
2004年4代目の典正氏(現・専務)が入社。低価格・大量販売の事業を高品質なブランド商品開発事業に変え始めた
05年特産の梅を使った梅酒を開発・発売
08年純米、吟醸、大吟醸の自社銘柄日本酒を開発。販売も全国の特約店80店に絞った
特徴

父親の代に始めた低価格・大量販売型の日本酒造りから高品質の日本酒や梅酒造りへ事業を転換して成功。全国新酒鑑評会で金賞を2015年から連続受賞した


日経ビジネス2018年11月19日号 48~53ページより目次