6月24日朝。曇り空の下、三菱自動車が開いた株主総会の会場となった幕張メッセに向かう道に、株主の姿はまばらだった。「あきれ果てて、わざわざ幕張に来る意味なんてないよ」。株主の一人はこう吐き捨てた。4000人収容の会場に来場したのはわずか550人。昨年の4分の1以下だ。

(写真=人物左:時事、右2人:共同通信)
(写真=人物左:時事、右2人:共同通信)

 この日、ある意味で主役だったのは社長の相川哲郎だろう。父親の賢太郎は三菱重工業で社長、会長を歴任したスリーダイヤの重鎮。「三菱の街」と言っても差し支えのない長崎で生まれ、東京大学で船舶工学を学んだ後、三菱自動車に入社、開発畑を歩んだ。早くから「プリンス」と呼ばれたが、実力も伴っていた。トヨタ自動車の技術者でさえ教えを請う「試作車を作らない開発手法」。他社に先駆けて「やろう」と号令をかけたのは相川だ。

 今年2月に商品計画を発表する前のこと。相川は投入車種を一気に絞る開発プランを策定した。会長の益子修は「ここまでやる必要があるのか」と疑問を呈したが、振り切った。開発部門で苦楽を共にしたOBは言う。「実力も人望も随一。皆、生え抜きの代表だと思って尊敬していた」。

 その相川が株主総会をもって三菱自動車を去る。「相川社長、あなたのようなクルマ好きな人が第一線から退くのは悲しい。辞任を撤回しませんか」。株主からそんな声も出たが、総会が終了するまでの2時間33分、相川はじっと前を見つめるだけで、一言も発しなかった。総会終了後に声をかけた株主に何度も頭を下げ、舞台の袖に消えた。

 「やれることは全部やった」。6月21日に会長の益子と国土交通省に出向き、燃費試験の不正について大臣の石井啓一に謝罪した後のこと。相川は吹っ切れたような声で周囲にそう漏らした。社長退任後に三菱グループのある会社で、北米の技術動向を調査するポストが用意されていたが、きっぱりと辞退した。プリンスの最後の意地だったのかもしれない。

繰り返される不正とトップ交代

 不正の迷宮──。過去20年、三菱自動車は不正を繰り返し、その度に経営者と株主がころころと変わった。1997年、総会屋への利益供与で社長の木村雄宗が引責辞任。後任の河添克彦は2000年のリコール隠しで辞めた。その後、資本提携した独ダイムラークライスラー(当時)が外国人社長を送り込んだものの、2004年の2度目のリコール隠しが発覚した後に出資も人材も引き揚げた。結局、三菱グループ3社が金融支援をすることで破綻を免れ、三菱商事から送り込まれた益子が中心となって再建に乗り出した。

 2014年、三菱自動車は3800億円にのぼった優先株を買い入れ消却し、16年ぶりの復配にもこぎ着けた。そして、益子から相川に社長のバトンが渡った。

 「ダイムラーにしろ三菱商事にしろ、恐怖政治でしたよ」。“落下傘社長”に耐えられずに辞めたOBはこう打ち明ける。2014年の相川社長誕生は、普通の会社に戻るだけでなく、「支配からの脱却」を意味した。

  就任から2年。「相川三菱」が経営資源をアジアに集中する体制を整え、成長を加速しようとした矢先に、燃費不正は発覚した。しかも不正の温床となったのは、相川の出身母体である開発部門である。おまけに不正の対象となったのは、相川が初代責任者を務めた「eKワゴン」だった。

 生え抜きの悲願だった相川体制を、出身母体が崩壊させるという底知れぬ組織の闇。一体、現場で何が起こったのか。それを知るには、時計の針を2013年まで巻き戻す必要がある。(続く)

=敬称略

(文=島津 翔)

日経ビジネス2016年7月11日号 24ページより目次