PROFILE
伊藤忠商事前会長。1939年生まれ、食料事業を中心に手掛け98年、社長に就任。4000億円規模の不良債権を処理し業績を回復。アジアへの造詣も深く2010年、民間出身では初の駐中国大使に起用された。
(写真=清水 盟貴)

「トップに立つ者の心得。
それは、国民の汗と脂を決して忘れないことだ」

 かつて、安岡正篤という国家主義者がいた。昭和天皇の「終戦の詔勅」に最終的に目を通して手を入れたほか、「平成」の元号を考案したとも言われている思想家である。1983年に85歳でこの世を去るまで、時の政治家や財界人など、数多くの権力者に進むべき道を指南し続けた。

 その安岡正篤の『全訳 為政三部書』を、政治家や経営者は改めて読み返すといい。トップに立つ者としての心得が、非常によくまとめられている。

 為政三部書は、中国・元の時代に官僚として活躍した儒教家、張養浩が残した『三事忠告』を安岡が邦訳したものだ。三事忠告は、張が自らの体験を基に、宰相、警察官、地方の長官に対して守るべき心得を示したものである。自分を常に律することの大切さや、優秀な人材を積極的に登用すること、人々の生活の安定を第一に考えること、公正を期すこと、常に出処進退を明らかにすることなど、今でも心に響く言葉がつづられている。

 そして、もう一つ、ぜひ知っておいてほしい言葉がある。旧二本松藩の城址(福島県二本松市)にある「戒石銘」だ。二本松藩の第5代藩主が、藩士の戒めとして長さ8m、幅5mもの大きな石に刻ませた。そこには、こう書いてある。

 爾の俸 爾の禄は
 民の膏 民の脂なり
 下民は虐げ易きも
 上天は欺き難し

 意訳すれば、「お前の給料は、民の汗と脂の結晶である。民を虐げることは簡単かもしれないが、神は常にお前を見ており、そのようなことをしたらきっと天罰が下る」という意味になる。ちなみにこれも原典は中国にある。五代時代の君主が965年に記した「戒諭辞」だ。

 為政三部書も戒石銘も、突き詰めればトップは常に、民を思う心を忘れてはならないということを言っている。だが、最近の政治家や経営者は、本当に国民や従業員のことを常に考えているだろうか。

 安全保障関連法制にまつわる問題や、沖縄の米軍普天間基地の辺野古への移設問題に関する政府の対応では、いったい、民意はどこにいってしまったのか。東芝の不正会計や独フォルクスワーゲンの排ガス不正などの不祥事では、トップは社員をどう思っているのか。社員、民意への言及がない。

 国民の汗と脂、従業員の汗と脂があってこそ、政治家も経営者も今の地位に立ち、高い報酬を得ることができている。トップに立つことができたのは、自分の実力だと考えるのは思い上がりだ。本当に稼いでいるのは国民であり従業員である。そのことを忘れていないだろうか。

 ともすれば、トップに立つと、権力を行使することや高い報酬を得ることが、当然のことのように思えてしまう。そうならず、常に国民や従業員のことを思い続けるには、自らを律する強い意志が必要だ。

 私も現役時代、「たまたま社長という地位をあずかったけれど、辞すればただの人。なぜ、社長の時だけ特別な待遇を受けるのか」と、自らに問いかけるようにしていた。「お前は、何様だ」と、自分に言い聞かせなければ、従業員のことを見失いかねない。ささいな例だが、会社に電車で通っていたのも、社員がそうしているのに、自分だけが特別に黒塗りのクルマに乗っていいのか、と考えたからだ。

 自らを律することができないトップは、誰からも信頼されない。そんなトップが多い社会だとすれば、若者たちには鬱々と怒りがたまっていくに違いない。

日経ビジネス2015年11月23日号 130ページより目次

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