PROFILE
ジャーナリスト。1956年生まれ。英エコノミスト誌の元編集長。東京支局長を経験した知日派。『なぜ国家は壊れるのか』(PHP研究所)ではイタリアと日本の類似性などを分析。ドキュメンタリー映画の製作も手掛ける。
(写真=永川 智子)

「日本の金融政策は効きすぎだ。
 信念は称賛するが、別のリスクを招いている」

 物事には、何事もさじ加減が大事だ。それは、現在の安倍晋三政権の金融政策にも言える。個人的には、アベノミクスの金融政策はやや効きすぎているように思う。デフレーションからの脱却に向けた確固たる信念は称賛してしかるべきだが、それが別のリスクを招いていると危惧している。

 端的に言えば、過剰なインフレーションの可能性だ。物価が政策当局者の想定以上に上昇し、それが国債市場の暴落を引き起こす。日本の危機シナリオとしては決して目新しいものではないが、それでもアベノミクスの金融政策が成功だと評価されている現状においては、この点を指摘しておきたい。

 この20年間、日本経済を表現する際に最も使われた言葉がデフレであることに対して、疑問を持つ人はいないだろう。デフレ脱却は健全な経済成長を取り戻すために不可欠な課題だが、日本ではあまりにもデフレの期間が長かった。このため、政策当局者の目的は、経済停滞からの脱却というよりも、物価を何とか上げようとすること自体にすり替わってしまったのかもしれない。

 確かに、日本銀行の黒田東彦総裁の大胆な金融緩和は、物価の上昇に大きく効いている。日本が脱デフレの道を突き進んでいるのは間違いないだろう。しかし、この現象をもって日本経済の問題が解決すると短絡的に考えるのは間違いだ。なぜなら、デフレは経済問題の帰結であり、原因ではないからだ。

 では本質的な原因とは何か。それは需要不足である。家庭、企業、政府、いずれのセクターにおいても、所得が減った結果、カネを使う意欲が弱まっているのだ。家庭は消費を控え、企業も投資を増やす気にならないため、需要は低迷したまま回復していない。それが経済の低成長の本質的な原因であり、物価下落という結果を招いた。

 黒田総裁は、その表層的な症候を手当てするのではなく、根本的な原因にメスを入れるべきだ。すなわち、賃金の上昇率を物価インフレを上回る水準に引き上げる必要がある。でなければ、物価上昇の結果は悲惨なものになるだろう。

 気がかりなのは、日本の家計貯蓄率が年々低下の一途をたどっている事実である。2013年度、日本は史上初めて家計貯蓄率がマイナス1.3%になった。この年は消費増税前の駆け込み需要という特殊要因のためマイナスとなったが、その要素を除いても、日本の家庭が将来のためにカネをためる余裕がなくなりつつある。ちなみに、米国の家計貯蓄率は実質可処分所得の5~6%となっており、家計の貯蓄で日米が逆転するという、筆者としては驚くべき状況になっている。

 黒田総裁もこの事実を理解していると思う。しかし、今のところ金融政策の効果が、賃金や投資に回っている気配はない。目につくのは、1990年代後半以来の最低水準に下がった円安のニュースばかりだ。これでは輸出に依存する特定の産業にしか恩恵が届かない。それは、日本全体のGDP(国内総生産)の5分の1程度にとどまる。

 もちろん、これは時間の問題だとの指摘もある。企業業績が改善し、その後に賃金が上昇し、それが冷え込んだ需要を回復させるという好循環が間もなく始まる可能性もある。

 しかし、もしこれが起こらなかったらどうだろう。賃金は上昇しても、それが消費に回らず、家庭の貯蓄を増やすだけだったら。確かにデフレは脱却したが、物価だけが上昇する事態になれば、日本経済は悲惨な状況に陥る危うさをはらんでいる。

日経ビジネス2015年6月29日号 130ページより目次

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