PROFILE
伊藤忠商事前会長。1939年生まれ。食料分野を中心に活躍。98年に社長就任。4000億円規模の不良債権を処理し業績を回復。アジアへの造詣も深く2010年、民間出身では初の駐中国大使に起用された。
(写真=清水 盟貴)

「信なくして国立たず。
世界経済混迷の原因は国家の信用失墜にあり」

 世界経済の混迷が深刻だ。中国の景気減速を発端とした資源安などが世界経済を揺るがしているというのが、一般的な見方だろう。それはマクロ経済的には正しいが、危機の本質はもっと根深いところにある。世界的に国家や企業への信用が失墜していることだ。

 米国では政治への国民の失望が顕著だ。今年11月の大統領選挙に向けた民主・共和両党の候補者指名争いでは、不動産王のドナルド・トランプ氏が共和党でリードしている。トランプ氏は、イスラム教徒の入国を禁止しようと訴えるなど、大統領候補としての資質を問われるような発言を繰り返している。そうした人物が支持を集めるのは、格差拡大やヒスパニック系移民の増加などにより、貧しい白人を中心として既存エリート層に対する不満が鬱積しているからだ。

 一方、中国では、共産党への信頼が大きく揺らいでいる。中国には7000万~8000万人の共産党員がいる。これで14億の民を束ねないといけない。しかし、これまで多くの共産党員が汚職に手を染めてきたために、国民からの信頼を失ってしまった。

 重要政策を議論する全国人民代表大会(全人代)では、2020年までの経済成長率を年平均で6.5%以上にすることを目指す方針を掲げる一方、反腐敗や格差解消に取り組むことを強調した。経済の成長が鈍化する中で、景気の先行きに対して国民の不安感も高まっている。汚職の取り締まりを強化するなどして、国民の不満をなんとか解消しなければならないという、苦しい事情が透けて見える。習近平国家主席にとって、政治・経済の両面で共産党に対する国民の信用をいかに回復するかが、最大の課題となっているわけだ。

 欧州もまた、ユーロ危機以降、信頼回復の糸口が見えない。しかも、欧州経済のけん引役を果たしてきたドイツに対する信頼が急速に揺らいでいる。昨年は、環境対応などで世界の先頭を走っているとみられていた独フォルクスワーゲンが、排ガス不正問題で一気に信用を失った。そして今年、ドイツ銀行が2015年度に9000億円もの巨額赤字を計上すると各国銀行に対する信用不安に火がついた。

 欧州では、難民問題も政治を大きく揺さぶっている。英国では欧州連合(EU)から離脱しようという動きが高まり、今年6月にも国民投票が実施される。欧州は、分裂の危機に直面していると言っても過言ではない。

 日本はどうか。東芝の不正会計問題やシャープの経営難で、かつて日本を支えた大企業への信頼は地に落ちた。福島第1原子力発電所の事故の問題では、汚染水だけでなく、東京電力が事故当時、炉心溶融の判断基準を見過ごしていたことが明るみに出るなど、信頼回復どころか、東電や政府への不信感は募る一方だ。日銀が導入したマイナス金利も、それがどのように国民生活に影響するのか十分な説明がなされていない。円安誘導によって株価を浮上させてきたアベノミクスは、もはや限界に近づいている。

 「信なくして国立たず」というが、みごとに世界の主要国で政治も企業も信頼を失っている。国際的な混乱が起きるのは必然だろう。

 こうした状況を打破するには、各国の政・経・官・学全ての分野のトップ層は、何をしたら国民の信頼を得られるのかをもっと真剣に考える必要がある。今一番大切なことは信頼を取り戻すことだ。それなくして、世界の安定はない。その意味で、米国の次期大統領に誰がなるのかは、世界が安定に向けて一歩を踏み出すうえで極めて重要な問題だ。結果次第では、安定に向かうか、さらなる混乱に陥るかの分水嶺になるだろう。

日経ビジネス2016年3月21日号 132ページより目次

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