伝統芸能を披露する場がまた一つ消えた。大阪能楽会館が年内をもって閉館し、約60年の歴史に幕を閉じる。能楽師で同会館の大西礼久取締役は「売り上げ減で地代や営繕費を賄えなかった」と話す。

[大阪能楽会館取締役]
大西礼久氏

1968年生まれ。観世流能楽師。重要無形文化財保持者(総合指定)。3歳で初舞台を踏み、能の普及にも取り組む。昨年から大阪能楽会館の経営にも本格的に携わる。閉館後は別の能楽館で稽古や舞台に出演予定。

SUMMARY

大阪能楽会館閉館の概要

1959年に開館。大西礼久氏の祖父で、観世流シテ方の故大西信久氏が能楽専用ホールとして創設。建築家の竹腰健造氏による建物で約510人を収容できる中規模の能楽館。伝統芸能の衰退に伴い、年々営業収入が減少してきた。借地で運営し、現状でも営繕費を捻出できないほど逼迫していたため閉館を決断。2018年2月までに取り壊す。

 60年ほど皆様に親しまれてきた大阪能楽会館を今年いっぱいで閉館することにしました。JR大阪駅から近く便利な場所なため、能楽界からは「つぶしたらあかん」と応援していただきましたが、もう限界です。能は650年以上続き、世界無形文化遺産にも登録されています。能を披露する場を1つ減らしてしまい、残念に思います。

 発端はお借りしている土地を返さなければならなくなったからです。1957年にお借りし、30年ごとの契約更新で運営してきました。地主は私の祖父のお弟子さんでもありました。そのご縁で相場の3分の1ほどで貸していただけていました。

 この周辺はこの60年間で大きく様変わりしました。開館当時は倉庫街で、下町情緒があるような場所でした。それがビルばかりの都会になりました。地価も高騰し、固定資産税も高くなり、先方も困られていたようです。

 そんな中、今年がちょうど3回目の契約更新だったのです。地主さまから「借地代を値上げさせてもらいたい」とご連絡を頂きました。実は昨年に地代をお支払いできない状態が3カ月ほど続きました。今でさえ支払いに窮しているのに、値上げは無理な話です。このまま続けると借金に頼ることになりますし、倒産なんてことになったら大変です。無念ではありますが、閉館を決めました。苦渋の決断でした。

 60年も使っていると設備が老朽化してしまいます。借地代さえ払えない状況でしたので、設備の営繕費にまで回せるお金はありませんでした。11月初旬に発生した台風では客席の天井から雨漏りがしました。格好悪い話ですが、段ボールにシートを敷いてしのぎました。空調も今年の夏は破れた配管ホースをテープでぐるぐる巻きにして何とか乗り切ったほどです。来年使うなら交換せねばならないでしょう。稽古場の40畳分の畳も、私が自腹で張り替えました。社長である父も1000万円ほど私財を投じてやりくりしてきましたが、もう持ちこたえられません。

黒字化するも時すでに遅し

 私自身は観世流の能楽師として活動するとともに、この会館の取締役として経営に携わってきました。昨年から経営を本格的に任されましたが、二足のわらじは想像以上に大変でした。舞いやお弟子さんに稽古をつけながら帳簿もみなければなりません。

 この会館は私が3歳の時に初舞台を踏んでからずっと過ごしてきた場所です。能楽師としては今回の閉館をさみしく思います。でもあまり言ってはならないことですが、正直に申せば経営者としては安堵感があります。お金の工面を考えずに、舞いだけに集中できる環境となったからです。

 大阪は能が昔から盛んでした。タニマチと呼ばれる後援者がたくさんおられたのです。御役料(役者への出演料)を支払いたいという方々が殺到して順番待ちができたほどです。商売人さんたちの間で、能を舞ったり、興行を支援したりすることがステータスだった時代が長くありました。奥様方を中心に習っていただくとともに、企業内のクラブ活動で能を楽しまれている方も多かったのです。お弟子さんもたくさんおられ経営も安定していました。

 ただ、良い時代が長かったため、時代の変化についていけない保守的な経営を続けてきてしまったとも言えます。新しいファンの開拓や会館の新しい使い方の提案といったことをしてきませんでした。昨年私が経営を任されてから、優秀な社員を招いて営業活動を強化しました。その結果、ここ数年続いた赤字から脱却できました。先代の経営を批判するつもりはありませんが「時すでに遅し」は間違いなく、私が早く経営権を握っていたら状況は変わっていたかもしれません。

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