(写真=菊池 くらげ)
(写真=菊池 くらげ)

 自分自身の言葉で誠実に語る──。1960年の初当選から2009年の引退まで約50年に及ぶ政治生活の中で、私が大切にしてきたことです。

 地元の活動では、街頭に立ち、自分の言葉で自分の考えを訴え続けました。聞きかじりや受け売りの話はダメです。聞く人の心を動かすことはできません。私が尊敬する大隈重信侯の言葉に「大衆を侮るな」とあります。まさにその通りだと思います。

自分の言葉で誠実に語り
大衆を侮らない
人的な国際貢献は信念

 最初は誰も話を聞いてくれません。しかし自分の言葉で語っているうちに意見を言う人や質問する人が現れる。演説を終えた後、そういう人の元に足を運び、話をする。このやりとりの中から人々の本音を知ることができるのです。

 私の後援会は、こうした本音のやりとりを積み重ねて作り上げた手作りのもの。2009年に衆院議員を引退するまで、連続16回当選することができました。

 政策の場でも自分の言葉にこだわり、演説や答弁では原稿を読まない主義を貫きました。言葉に命が宿らないからです。特に1991年に実施された政治改革関連3法案の審議では、3日間にわたって趣旨説明を行い、すべての質問に首相である私自身が答弁しました。これは極めて異例なことです。私自身がすべて答弁する方が、自信を持って答えることができます。野党に揚げ足を取られることもありません。

 ただ、そんな私の姿勢を閣僚たちは不安視していたようです。橋本龍太郎蔵相と中山太郎外相に制されることがありました。橋本氏が「あまりまじめに答えるな」と私を押さえる隣で、中山氏が「政府委員に答えさせろ」と言っている写真が残っています。

 政治改革法案は残念ながら廃案となり、海部政権の命取りとなりました。

 一方、同様に私が重視していたのが国際貢献です。湾岸戦争が勃発したのを受けて130億ドルの資金を拠出。停戦を受けて自衛隊の掃海艇を派遣しました。せめてそれくらいはしないと、日本が今後、胸を張って発言できなくなると考えました。

 これは、自衛隊が訓練以外の目的で海外で活動する初の事例となりました。このため、様々な議論が起こった。後藤田正晴元官房長官からは「やめておいた方がいい。早まるな。武力行使とみなされる」と強く反対されました。

 しかし私は「武力行使は憲法が認めていないが、それ以外の国際貢献は積極的にすべきだ」と信じて疑いませんでした。「掃海艇の派遣は水路の大掃除。停戦後ならば武力行使には当たらない。日本はもちろん世界の人の幸せにつながる」と考え決断しました。

 「(私が)渋々踏み切った」と書いた新聞がありました。あれは不本意な評価でした。国際社会に対して人的貢献をするのは私の信念です。自民党の青年局長を務めていた1965年、青年海外協力隊の創設を実現しました。発展途上国を支援するボランティア派遣制度です。私の中で中東への掃海艇派遣は、この延長線上にあった政策なのです。

 湾岸戦争については反省もあります。開戦の直前に中東を訪問しサウジアラビアの首脳から「戦争はない」との情報を得ていました。だから戦争が起こった時にはかなり驚きました。情報は裏を取ることが肝要です。(談)

日経ビジネス2016年4月25日号 1ページより目次

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