安全対策に「絶対」はなく 「終わり」もない 事故を語り継ぐことは使命

 昭和63年(1988年)12月5日午前9時半過ぎ、月1回の役員会議の真っ最中に事故の第一報が飛び込んできました。東中野駅に停車中の中央線の各駅停車の列車に、後続の列車が追突したのです。すぐにテレビをつけると、後続の列車が前の列車に乗り上げている様子が映し出されていました。この事故でお客さまお一人と運転士が亡くなりました。また重軽傷を負ったお客さまは116人で、新生JR発足から1年9カ月目に起きた大事故でした。

(写真=大槻 純一)
(写真=大槻 純一)

 当時、総務課長だった私は経営幹部とともに、ご遺族にお目にかかり、けがをされた方々をお見舞いしました。尊い命が失われたこと、けがをされた方の被害、ご家族への影響を考えると、事故を起こした会社としての責任を痛感しました。当時の住田正二社長は全社員に対し「我々は、この事故を原点として安全に取り組まなければならない。そうでなければ亡くなった方に申し訳が立たない」と語りかけました。社員全員が同じ思いを抱き、安全への決意を胸に刻み、二度と同じような事故を起こすまい、と心に決めました。

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