(写真=村田 和聡)
(写真=村田 和聡)
日野原重明(ひのはらしげあき)氏
1911年 山口市に生まれる
1937年 京都帝国大学医学部卒業。同大学病院で研修
1941年 聖路加国際病院で内科医になる
1951年 聖路加国際病院内科医長。米エモリー大学に留学
1952年 聖路加国際病院院長補佐
1970年 「よど号ハイジャック事件」に遭遇
1973年 「ライフ・プランニング・センター」設立、理事長に就任
1974年 聖路加看護大学学長
1992年 聖路加国際病院院長
1996年 聖路加国際病院名誉院長
2000年 「新老人の会」設立

 戦後間もない1947年、日本の医療事情は劣悪で、病院も医師も薬も、すべてが不足していた。日本人の平均寿命は男性50.1歳、女性54.0歳だった。

 そんな時代にいち早く、「病気を治す」ことではなく「病気にならないこと」に注目した医師がいた。聖路加国際病院の橋本寛敏元院長と、国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター)の坂口康蔵元院長である。日野原重明氏は橋本院長の右腕として予防医療の制度立ち上げに奔走した。

 「病院は病気の人が来るところというのがそれまでの常識でしたが、病気を予防するためには健康な人が病院で受診する必要があるのです。寿命が延びていけば、やがて健康な人がどう老いていくかという問題が重要になると我々は考えました」

 「最初は『定期健康検査』と呼んでいましたが、これを聞きつけた新聞記者が船を点検・修理するドックからの連想で『人間ドック』と書き、いつの間にかこの呼び方が定着しました。最初の利用者は政治家です。政権についている時の政治家は激務に追われますが、内閣が辞職するとしばらく暇になる。その期間に『体のお手入れをされたらどうですか』とお勧めしたのです」

 聖路加の内科医長だった日野原氏は、国立東京第一の小山善之医長と組んで、人間ドックの仕組み作りを進めた。人間ドックを健康保険の対象にしてもらうため、日野原氏と小山氏は東京・乃木坂にある健康保険組合連合会の本部にも通った。

 血圧測定、血液検査、検尿、心電図、レントゲンといった健康診断の定番メニューはこの時に固まった。

 「今は技術が進んだおかげで、日帰りでほとんどの検査が受けられますが、当時は検査機器の性能が劣っていたので、検査をするのに1週間かかりました。優れた装置がなくて、当初は肝臓の検査はできませんでした」

 こうして54年、国立東京第一と聖路加は日本初の人間ドックを開始した。両病院合わせて7床でのスタートだった。

 「健康な時に病院に行くという習慣は、当時の日本人にはありませんでした。我々は病気を予防したり、早期に発見したりするためには、自覚症状がなくても定期的に健診を受けた方がいい、という考え方を日本中に広めなくてはなりませんでした」

 人間ドックを普及させるうえで、国民の誰もが名前を知っている政治家に受診してもらうことは大いに効果があった。ある日、とある大物が聖路加の人間ドックにやってきた。読売新聞のオーナーで衆院議員も務めていた正力松太郎氏である。

 「1週間の健診の最後に会食の時間があったのですが、正力さんに会いたい人たちが皆さん受診に来ましたよ」

 この頃から日野原氏は正力氏の主治医になり、正力氏の最期をみとることになる。こうしてまずは政財界の有力者から始まった人間ドックが徐々に一般の人々にも広がり、「長寿ニッポン」を支える制度として定着していく。

 日野原氏は聖路加で橋本院長の補佐として忙しい日々を送りつつ、平日の夜や週末の時間を使って、日本における予防医療の普及に努めた。67年には、日本キリスト者医科連盟が国際予防医療センター(IPC)を設立した。

<b>日野原重明氏は自宅にいる時でも執筆作業などで忙しい。二男の妻の眞紀氏が身の回りの世話をしている</b>(写真=村田 和聡)
日野原重明氏は自宅にいる時でも執筆作業などで忙しい。二男の妻の眞紀氏が身の回りの世話をしている(写真=村田 和聡)

 こうした活動を後押ししてくれたのが、健康保険組合連合会の高橋敏雄・元常務理事だった。日野原氏の患者でもあった高橋氏は、日野原氏に古井喜實・元厚生大臣を紹介。古井氏のあっせんによって、IPCは東京・永田町の砂防会館に人間ドック専門のクリニックを構えることになった。

 当時の砂防会館には田中角栄氏、中曽根康弘氏、金丸信氏など自民党の大物政治家が事務所を構えており、日野原氏は時の権力者たちと挨拶を交わす仲になった。

 72年のある日、神奈川・箱根の仙石原でIPCのワークショップに参加していた日野原氏に、突然、往診の要請があった。日本船舶振興会(現日本財団)の笹川良一会長が箱根の別荘で倒れたという。駆け付けてみると、笹川氏は急性脳症を発症していた。日野原氏の応急処置で笹川氏は一命をとりとめ、これが縁で笹川氏の主治医になった。

 しばらく後に、笹川氏が聞いた。

 「そういえばあの時、日野原先生は箱根で何をされていたのですか」

 予防医療の普及を目指していることを説明すると笹川氏は感銘を受け、「それは大変いいことだから日本船舶振興会が資金を援助しましょう」と言った。補助金や助成金そして運営費として約4億円を拠出した。73年、この資金を元に日野原氏はライフ・プランニング・センターを立ち上げた。

 「笹川さんはかつて戦犯の容疑をかけられたことがあり、ボートレースの創始者ということもあって、世間からいろいろ言われていました。本人も気にされていたようなので、私は『収益を世の中のために還元されてはどうですか』と提案したのです」

 笹川氏はその後、ハンセン病の制圧に取り組む財団も立ち上げ、日野原氏はその財団の理事長になった。笹川氏との関係を悪く言う人もいたが、日野原氏は「笹川さんは自分のためでなく、一般の人々のために立派な仕事をされている」と一顧だにしなかった。

 ライフ・プランニング・センターという名前を考えたのも日野原氏だが、財団登録のとき厚生省(現厚生労働省)は「片仮名の名前は前例がない」と難色を示した。

 「受診者のライフを、受診者と一緒にプランするセンターですから、ほかに名前の付けようがないでしょう。何回も窓口に通って説得しましたよ」

今週の言葉
「国民の参与なしに国民を健康にすることはできない」
ルネ・サンド

 予防医療を普及するためにライフ・プランニング・センターが照準を合わせたのは家庭の主婦だった。

 「米国にはホームドクターという制度があって、日ごろから受診者の健康相談に乗っていますが、日本の病院は病気を治すところであって、健康相談はなかなかできない。ですからまずは家族の健康について主婦に学んでもらおうと考えました」

 羽仁もと子氏が主宰する雑誌「婦人之友」と組んで「婦人は家族の健康管理の責任者」というキャンペーンを展開した。ライフ・プランニング・センターに主婦を集め「ホームケア・アソシエイト養成講座」と称して、現役の看護師たちが、水銀計を使った血圧の測定方法を教えた。

 血圧に注目したのは、当時、脳卒中が日本人の死亡原因の第1位だったからだ。塩分の取り過ぎは高血圧の原因になる。しかし血圧を測るためにいちいち通院するわけにはいかないから、血圧は自分や家族が家庭で測ることを推奨したわけだ。

 「定期的にご主人の血圧を管理し、食事の塩分は控えめにしましょう」。今でこそ当たり前に聞こえるが、医療の素人である主婦が家族の健康を管理するという考え方は、当時としてはかなり先進的だった。「血圧の測定は医療行為であり、素人が血圧を測るのは医師法違反」と主張する人までいた。

 ライフ・プランニング・センターが「塩分は1日8g」を提唱したら、これに対しても厚生省からクレームがついた。厚生省は「1日11g」としていたからだ。

 「医療は医者に任せろという人も多くいましたからね。日本財団の予算で海外から予防医療の指導者を招いて講演してもらうなど、いろんなことをやりました。『開業医の仕事を奪う運動だ』と心配する人たちもいましたから、日本医師会に何度も足を運び、『そうではありません』と説明しました」

 かつて医療の現場では「患者は黙って座っていればいい」のであって、診断に異論を挟むなど、もってのほかだった。そんな時代に「自分の健康は自分で守れ」と唱えた日野原氏は、日本の医療の民主化を大きく前進させた。今でも日野原氏は講演でよくこう話す。

 「医者に頼りきりではいけません。皆さんの健康は皆さん自身が守るのです」

今週の一冊
『死をどう生きたか~私の心に残る人びと~』
日野原重明著 中央公論新社
(写真=スタジオキャスパー)
(写真=スタジオキャスパー)

 本書は1983年、日野原重明氏が71歳のときに書いた本だ。日野原氏は45年に及ぶ内科医としての生涯で600人を超える患者の最期をみとった。その中から「人間の生き方を教えられた」という18人との交流を描いた。2015年10月に文庫化された。

 最初に登場するのは、日野原氏が内科医として初めて担当した16歳の少女である。少女は結核性腹膜炎を患っていたが、当時は有効な治療法がなく、日ごとに衰弱していった。

 ある日、死期を悟った少女が日野原氏に言う。「私はもうこれで死んでゆくような気がします。先生から、お母さんによろしく伝えてください」。少女の母は貧しい女工で病院に頻繁には来られなかった。血圧が低下し意識が薄れていく少女の耳元で、日野原氏は叫んだ。

 「しっかりしなさい。死ぬことはない。もうすぐお母さんがみえるから」。少女はそのままこと切れた。

 後に日野原氏は、この日のことを深く悔やむ。どうして「安心して成仏しなさい。お母さんには、あなたの気持ちを十分に伝えてあげますよ」と言ってあげられなかったのか。16歳の少女が穏やかに死を受容していたのに、医者の自分にはそれができなかった。この体験が患者の心に寄り添い「慰める」ことに重きを置く、日野原氏の哲学につながっていく。

 このほか、禅学者の鈴木大拙氏、政治家の石橋湛山氏、読売新聞オーナーの正力松太郎氏など様々な人々の「最期の生き様」が淡々とつづられる。文庫化に当たり、2013年に亡くなった妻・静子さんをしのぶ「妻、静子を喪(うしな)って」が巻末に加えられた。

日野原重明先生の生き方教室

日野原重明先生の書籍を紹介します。

100歳を越えても挑戦し続ける力はどこから来るのか?

これからの人生を朗らかに生き、働くためのバイブルです。生き方に迷う定年前後のビジネスパーソンだけでなく、ますます元気にこれからの人生を楽しみたいという方々にも、おすすめします。

≪主な内容≫
【 序章 】 人間 日野原重明
【第1章】 「シニア」は75歳から、74歳は「ジュニア」です
【第2章】 「よど号事件」で生き方が変わりました
【第3章】 日本の憲法と聖書には同じ精神が流れています
【第4章】 健康な人がどう老いていくか この問題が重要になると考えました
【第5章】 疲れたなどと言っている暇はないのです
【 対談 】 日野原重明先生×稲盛和夫さん 「医を仁術に終わらせてはならない」



聞き手=大西 康之

日経ビジネス2015年12月7日号 58~61ページより目次
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