(写真=村田 和聡)
日野原重明(ひのはらしげあき)氏
1911年 山口市に生まれる
1937年 京都帝国大学医学部卒業。同大学病院で研修
1941年 聖路加国際病院で内科医になる
1951年 聖路加国際病院内科医長。米エモリー大学に留学
1952年 聖路加国際病院院長補佐
1970年 「よど号ハイジャック事件」に遭遇
1973年 「ライフ・プランニング・センター」設立、理事長に就任
1974年 聖路加看護大学学長
1992年 聖路加国際病院院長
1996年 聖路加国際病院名誉院長
2000年 「新老人の会」設立

 日野原重明氏は70年前の8月15日、聖路加国際病院のチャペルで玉音放送を聞いた。大学の時に大病を患ったため、徴兵はされず、東京で内科医として働いていた。33歳の夏だった。

 「真珠湾攻撃の後、日本中が『勝った、勝った』と大騒ぎになりましたが、私の父は『日本とアメリカでは国力が違う。いずれ日本が負ける』と言っていました。牧師でアメリカに留学した経験がある父は、広島女学院の学院長などをしていましたが、そのころには引退しており、東京で医師として働く私のところに遊びに来ることもありました」

 「『日本が負ける』などと口に出せる世相ではありませんでしたが、父からアメリカの情報を得ていた私は『こんな戦争、しなければいいのに』と思っていました」

 太平洋戦争は日野原氏が聖路加国際病院で働き始めた1941年に始まった。憲兵が病院に乗り込んできて、塔のてっぺんにあった十字架を切断した。建物の敷石に刻まれていた「神の栄光と人類奉仕のため」の文字も「けしからん。消せ」と言う。

 「しかし敷石を外すわけにもいきませんし、石に彫った文字を消すこともできません。仕方がないので御影石の板を持ってきて、くぎで敷石に打ち付けました」

 病院の外に置かれた敷石には今も、この時のくぎの穴が痛々しく残っている。キリスト教の聖人「聖ルカ」にちなんだ聖路加の名も「大東亜中央病院」に改められた。

 病院は東京を焼き尽くした戦争末期の大空襲を免れた。屋根の上の十字架がなくなっても、米軍は聖路加がキリスト教系の病院であることを知っており、空襲の対象から外したとされている。

 だが周囲は焼け野原になり、重傷を負った人々が次々と担ぎ込まれた。ベッドはすぐに満杯になり、日野原氏はチャペルの床や廊下に患者を寝かせた。治療する道具も薬もなく、気休めに新聞紙を燃やした灰をふりかけた。

 「私はね、日本で一番たくさん死亡診断書を書いた医者ではないかと思うのです。目の前で死んでいく患者さんに、十分な治療をしてあげられない。医者として無力感を抱いていました」

 4年間の戦争が終わると、今度は連合国軍総司令部(GHQ)が病院を接収。「2週間後に立ち退け」と命じられ、日野原氏らは仮病院に移転した。すべてが返還されたのは10年と8カ月後のことだった。

 時代に翻弄されたこの時代のことを日野原氏は「あまり思い出したくない」と言う。戦争の時代を生きた人々の多くは、日野原氏と同じ思いから、自らの体験を語らずにいる。

 しかし彼らが苦い記憶を胸にしまったままでは、その世代で戦争の記憶は途絶え、日本はいつか同じ過ちを繰り返すかもしれない。

 「実際に戦争を体験した我々は、その悲惨さを語り継ぎ、いのちの尊さを次の世代に伝えなくてはなりません」

 日野原氏は、2000年に立ち上げた「新老人の会」のシニア会員を75歳以上とした。これには合理的な理由がある。

 「2000年時点で75歳の人は20歳で終戦を迎えています。成人として戦争と終戦を体験したこれらの人々こそ、次の世代に自分たちの体験を伝えなくてはならないのです」

 全国各地にある新老人の会の支部は、地元の子供たちに戦争体験を語り継ぐことを活動の1つの柱にしている。

 2015年10月9日。山梨県甲府市の伊勢小学校で新老人の会山梨支部による「戦争について考える授業」が開かれた。伊勢小学校の6年生、56人がお年寄りたちの戦争体験に耳を傾けた。

 この日の講師は山梨支部世話人代表の深澤勇氏(95歳)と山梨支部世話人の輿石一成氏(92歳)。深澤氏は資料を交えて中国での戦争体験を語り、輿石氏は工兵として南方に出征したときの話や、東京空襲の話をした。

 日野原氏自身も「いのちの授業」と題して全国の小学校を回っている。これまでに直接話をした小学生は3000人を超える。新老人の会と並ぶ、日野原氏のライフワークである。

日野原重明氏は104歳になった今も全国を駆け巡り、過去の戦争体験を語り続けている(写真=村田 和聡)

 「教室に入ったら、まず聴診器で友達の心臓の音を聞かせます。そして『心臓は血液を全身に送る機械であって、いのちではありません』と教えます。ではいのちとは何か。私は『それは君たち一人一人に与えられた時間のことだ』と答えます」

 「そして『今は自分の時間を自分のために使っていい。でも大人になったら、いつか他人のために時間を使ってください』とお願いするのです。他人の価値観や尊厳を否定するという意味において、いじめと戦争は同じ。互いに許し合えば、平和がやってくるはずです」

 9月には日野原氏が自らの戦争体験をつづった『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』が刊行された。その刊行記念会見で日野原氏はきっぱりこう言った。

 「私は今回の安保関連法案には反対です。憲法の精神と正反対のことをしていると考えるからです」

 戦争の放棄をうたう日本の憲法には、聖書によく似た考え方が盛り込まれていると日野原氏は言う。

 「聖書には『右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい』という耐える精神が書いてある。殴られても殴り返さずに耐えるという日本の憲法も、聖書と同じ、耐える精神が盛り込まれています。我々はこの精神を大事にしなくてはならない」

 新老人の会のモットーは「愛し愛されること」「創(はじ)めること」「耐えること」の3つである。なぜ耐えることが必要なのか。

 「長生きをすれば、連れ合いの死にも向き合わねばならないし、場合によっては子や孫を見送ることもあるでしょう。私も妻が死の床に就いているときは、別れが来るのが怖かった。東日本大震災でも多くの人が、耐えがたい悲しみを味わったことでしょう」

 「でも人は耐えなくてはならないのです。老人は嘆くばかりでなく、耐えなくてはなりません。一人で耐えられない悲しみも、仲間がいれば耐えられる。だから新老人の会では、耐えることを大事にしています」

今週の言葉
「ひとりひとりのいのちが大切に守られること。
互いに許し合うこと。
これによって平和がもたらされるのです」

パブロ・ピカソ

 憲法に込められた「耐える精神」が戦後70年間、日本に平和をもたらしたと日野原氏は考えている。そして戦後70年の今年、集団的自衛権の行使を可能にする安保関連法案が可決された。

 日野原氏が今年、「あまり思い出したくない記憶」をたぐって『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』を執筆したのも、こうした時代の変化と無縁ではないだろう。日本から耐える精神が薄れつつあることへの危機感だ。

 本の「はじめに」で日野原氏はこんなふうに訴えている。「戦争やいじめは、人間が人間を愛したり、尊敬したりするあたりまえの心を狂わせてしまうおそろしいものです」。

 11月13日にパリで起きた過激派組織「イスラム国」による同時テロは、米欧の有志国によるシリア空爆に対する報復だった。フランスはすかさず再空爆で反撃した。

 「殴られたら殴り返す、では悪循環に陥ってしまいます。憎いと思う相手を、耐えて許すことが何より大切なのです」

 聖路加国際病院で勤続74年間。いのちと向き合い続けてきた医師の言葉である。

今週の一冊
『零の進軍~大陸打通作戦 湖南進軍 死闘1400km 一兵卒の壮絶な大記録』
吉岡義一著 新老人の会熊本支部
(写真=スタジオキャスパー)

 新老人の会熊本支部は会員が戦争体験を語り継ぐ公開講座を月1回のペースで開いている。ある日、会員の一人が「自分の戦争体験を書きためている友人がいる」と言うので、その手記を読むと、あまりのリアルさに驚いた。「これはぜひ、書籍にして世に出すべきだ」と意見が一致し、会員たちが奔走して生まれたのが本書である。

 筆者の吉岡義一氏は1923年生まれ。43年、20歳のときに徴兵され、一兵卒として中国大陸に赴いた。終戦までの3年間、部隊は1400km行軍した。

 約1年間の中国での抑留生活を経て復員した吉岡氏は、故郷の熊本に戻って製茶業を営んでいたが、敗戦から16年後の1961年、一念発起して自らの戦争体験を書いた。手記はその後、自宅に放置されていたが、半世紀を経て新老人の会熊本支部の手で世に送り出された。

 死の行軍を続ける中、食料の補給はゼロ。部隊は「徴発」と称して民家を収奪した。兵士たちは自分が今どこにいるのか、これからどこへ向かうのかさえ知らされなかった。初年兵の吉岡氏は古参兵から暴力を受け続け、同期や上官が次々と死んでいった。

 「この作戦では補給は零だった。兵士の頭の中は零だった。兵士の人格も零だった。兵士の命も零だった」。その思いから書名は「零の進軍」に決まった。日野原氏はこの本にこんな言葉を寄せている。

 「歴史は後世に引き継がれてこそ事実として存在していくことになります。誰もが吉岡義一氏の極限の体験をしっかりと受け止め、平和な社会の実現にいのちを懸けて行動していかなければなりません」

日野原重明先生の生き方教室

日野原重明先生の書籍を紹介します。

100歳を越えても挑戦し続ける力はどこから来るのか?

これからの人生を朗らかに生き、働くためのバイブルです。生き方に迷う定年前後のビジネスパーソンだけでなく、ますます元気にこれからの人生を楽しみたいという方々にも、おすすめします。

≪主な内容≫
【 序章 】 人間 日野原重明
【第1章】 「シニア」は75歳から、74歳は「ジュニア」です
【第2章】 「よど号事件」で生き方が変わりました
【第3章】 日本の憲法と聖書には同じ精神が流れています
【第4章】 健康な人がどう老いていくか この問題が重要になると考えました
【第5章】 疲れたなどと言っている暇はないのです
【 対談 】 日野原重明先生×稲盛和夫さん 「医を仁術に終わらせてはならない」



聞き手=大西 康之

日経ビジネス2015年11月30日号 58~61ページより目次