(写真=村田 和聡)
日野原重明(ひのはらしげあき)氏
1911年 山口市に生まれる
1937年 京都帝国大学医学部卒業。同大学病院で研修
1941年 聖路加国際病院で内科医になる
1951年 聖路加国際病院内科医長。米エモリー大学に留学
1952年 聖路加国際病院院長補佐
1970年 「よど号ハイジャック事件」に遭遇
1973年 「ライフ・プランニング・センター」設立、理事長に就任
1974年 聖路加看護大学学長
1992年 聖路加国際病院院長
1996年 聖路加国際病院名誉院長
2000年 「新老人の会」設立

 「医者の世界は箱根を越えたら東大閥だ。京大卒の君が行っても苦労するだけだぞ」

 京都大学医学部を卒業してから4年間、京都で研修を受けたり、大学院で心臓病学の研究をしたりしていた日野原重明氏は1941年、制止する周囲を振り切って上京した。東京の聖路加国際病院に移った。

 やがて戦争が始まったが、学生時代に結核性胸膜炎の病歴がある日野原氏は召集を免れ、戦時中も聖路加国際病院で働いた。51年には内科医長に就任し米国にも留学、帰国して52年に院長補佐と順調にキャリアを積んだ。

 「もちろん、一生懸命働きましたよ。聖路加国際病院を立派な病院にしようと思ってね。しかし、今のような気持ちで働いていたわけではありません。あの日起こった思いもよらぬ出来事が、私の生き方をすっかり変えてしまったのです」

 70年3月31日、日野原氏は福岡で開かれる内科医の学会に出席するため羽田発の日本航空機「よど号」に乗った。飛行機が富士山頂に差しかかる頃、何人かの若者が突然立ち上がり、日本刀を抜いた男が「我々は日本赤軍である。この機をハイジャックした」と叫んだ。日野原氏を含む乗客乗員103人はその瞬間から、人質になった。世に言う「よど号ハイジャック事件」である。

 「これは大変なことになった、と思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか、という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈を取ろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を測りました」

 「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しているんだなあ、と納得したのです。つくづく医者なんですね」

 ハイジャック犯はパイロットに「(北朝鮮の)平壌へ向かえ」と命じた。福岡から平壌に行き先を変えた飛行機が海峡の上を飛んでいるとき、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌やその他の本を貸し出す。読みたい者は手を挙げろ」と機内放送があった。

 「彼らが持ち込んでいたのは、金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集などでしたが、その中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。『それが読みたい』と手を挙げると、彼らは文庫本5冊を私の膝に置いてくれました」

 ページを開いた途端、本の冒頭の言葉が日野原氏の目に飛び込んできた。

 「そこにはこう書いてありました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし』。ヨハネ福音書の一節です。人質という極限状態の中でしたが、この言葉に出合って、すうっと心が落ち着きました」

 「強行突入ということにでもなれば、私もいのちを落とすかもしれない。いのちとは何か、死とは何か。そのとき私は深く考えたのです」

 飛行機は平壌に向かっていたが、パイロットは38度線付近で機体を大きく左に旋回させ、韓国の金浦空港に降り立った。ハイジャック犯の多くは平壌に着いたと思っていたが、メンバーの1人が着陸直前に窓の外に「シェル」のガソリンスタンドを見つける。「ここは平壌じゃないぞ」。だまされたと気付いた赤軍は激高し、金浦空港で3日間、機内に籠城した。

 初日は飲まず食わず、2日目から水と弁当が配られたが、3日目になると体調を崩す乗客が出てきた。日野原氏と東京大学医学部の吉利和(よしとしやわら)教授は、犯人に頼まれ、診察に当たった。皮肉なことにハイジャック犯の中には、吉利氏の教え子もいた。

 4月3日、日本から駆け付けた山村新治郎・運輸政務次官が身代わりになることで、日野原氏ら人質は解放された。飛行機の外に出るのは実に3日ぶりのことだった。

1970年にハイジャックされた「よど号」に偶然乗り合わせた日野原重明氏。この出来事が日野原氏の考えを大きく変えた

 「金浦空港の地面を踏んだ瞬間、僕は足の裏からビビビッと霊感のようなものを感じたのです。アポロのアームストロング船長が月から地球に戻ったときも、あんな感じではなかったかと思う。自分は生きているということを実感しました。このいのちは『与えられたいのち』であると思ったのです」

 日野原氏は、金浦空港で妻の静子さんに出迎えられ、その日の深夜、東京の自宅に戻った。居間は全国から届いた花で埋め尽くされていた。

 「自分が多くの人々に支えられてきたことを実感しました。だから、与えられたいのちを、これからは誰かのために捧げよう、と決心したのです」

 「少し休んだ方がいい」という院長の勧めもあり、日野原氏は静子さんと静岡・熱海のホテルで2週間ほど静養した。その時、旅行かばんに詰めていったのが、ユダヤ人哲学者、マルティン・ブーバーの本だった。

 「そこには『新しく始めるということを忘れてしまわないならば、老年というのは一つのすばらしい事柄である』というブーバーの、あの言葉がありました」

 この事件をきっかけに、当時58歳だった日野原氏は、内科医、研究者としての名声を求める生き方をきっぱりとやめた。そして3年後の73年、財団法人ライフ・プランニング・センターを設立し、自らその理事長に就任した。当時は「医療」と言えば主に「治療」を指した日本において、「予防医療」の考え方を広めようとしたのである。

 「ライフ・プランニング・センターの目的は、国民の一人ひとりに“健康”についての理解を深めてもらい、生活習慣の改善によって『自分の健康は自分で守る』ことができるように一人ひとりを動機づけ、成長発達、老化の過程を通しての全生涯にわたって、生活の質を豊かに保ってもらうことです」

今週の言葉
「生きることでなく、よく生きることをこそ、何よりも大切にしなければならない」
ソクラテス

 日野原氏のこの考えは、終戦直後に日野原氏が触れた「米国医学の祖」ウイリアム・オスラーの思想に基づいている。講義中心のドイツ的医療教育に代わり、臨床を重視する米国医学の体系を生み出したオスラーは、100年前に「将来の医療は健康保持と病気の予防にある」と予言していた。

 日野原氏はオスラーの思想を実践すべく、治療を重視し予防やターミナルケア(終末医療)に無頓着な日本医療の変革に乗り出した。

 93年には神奈川県中井町に、我が国初の独立型ホスピス「ピースハウス病院」を設立した。患者の人生最後の「質」を高めるターミナルケアは、欧米では広く普及しているが、日本の医療制度は依然として「治療」に重きが置かれている。

 意識がなくなっても延命治療は続けられ、何本ものチューブにつながれた患者は、最後の最後まで病と闘うことを強いられ、家族と別れの言葉を交わすことすらままならない。日本で、こうした状況がなかなか改善されないことに対して、日野原氏は憤りを隠さない。

 「無理な延命治療は患者を苦しめ、家族や社会にも重い負担を強いている。必要以上に延命治療をやりたがる医師は、医療行為を営業行為と勘違いしているのです」

 死は忌むべきものであり、医療の目的は死を遠ざけることにある。この考えの上に立つと、医者と患者は最後まで病と闘わなくてはならない。その闘いに勝利はない。「がんばれ」と励ます医師や家族の期待に応えられなくなった患者は、敗北感を抱えながら死んでいくことになる。だが死を遠ざけるのではなく、受け入れる考えに立てば、それは「敗北」ではなく「旅立ち」に変わる。

 「私は多くの患者さんの死に立ち会ってきましたが、死はグッバイではなく、シー・ユー・アゲインなのです。天国でまたお会いしましょう、というしばしのお別れです」

 「そこでの医師の務めは、最後まで患者さんのクオリティー・オブ・ライフ(生活の質)を保ち、家族ときちんとした形でお別れをしてもらうことです。チューブにつながれ、家族とコミュニケーションできない状態で少しばかり延命することにどれだけの意味があるというのでしょうか」

 「よど号事件」をきっかけに「生き方」を変えた日野原氏は、日本人に人生の最後までいのちを大切に使うことを呼びかけてきた。あれから半世紀近い時がたち、ようやく日本でも予防医療やターミナルケアの重要性が理解され始めた。

今週の一冊
『平静の心~オスラー博士講演集』
日野原重明、仁木久恵訳、医学書院
(写真=スタジオキャスパー)

 ウイリアム・オスラー(1849~1919年)はカナダ生まれ。米ペンシルベニア大学などで医学部教授を務めた。学生に対しては病院や外来での体験学習を重視し、患者の心に通じるすべを学ばせようとした。

 オスラーは看護教育の重要性も唱えており、患者本位の米国型医療の基礎を築いた人物と言える。英オックスフォード大学に招聘され、晩年を英国で過ごした。

 本書はオスラーがペンシルベニア大学を去るときに行った特別講演がベースになっており、米国の医療関係者にとってバイブルのような存在になっていた。

 終戦直後、聖路加国際病院が連合国司令部に接収されていた時期、米軍のライブラリーで医学関連の文献を読みあさった日野原氏は、そこでオスラーの存在を知る。

 司令部に幣原喜重郎首相の治療を命じられた日野原氏が、知り合いになった司令部軍医団に「オスラーの本を読んでみたい」と願い出たところ、日本に上陸する前の病院船に『平静の心』を携帯していたバワーズ大佐が譲ってくれた。

 オスラーの思想を日本の医学関係者にも広めるため、邦訳を買って出た日野原氏は、訳者序の中でこう述べている。

 「私が、臨床医として生き、医学を研究し、医学を教える立場に立って働いていくうえで、強烈なインスピレーションと、今日の仕事に全力投球できる力を与えてくれたのは、この本に示されたオスラーの言葉である」

 「私は日本における若い世代の医療専門職に携わる人々にも、文章となって遺されたオスラーの言葉と精神とが、大いに感化を及ぼすことを切望する」

日野原重明先生の生き方教室

日野原重明先生の書籍を紹介します。

100歳を越えても挑戦し続ける力はどこから来るのか?

これからの人生を朗らかに生き、働くためのバイブルです。生き方に迷う定年前後のビジネスパーソンだけでなく、ますます元気にこれからの人生を楽しみたいという方々にも、おすすめします。

≪主な内容≫
【 序章 】 人間 日野原重明
【第1章】 「シニア」は75歳から、74歳は「ジュニア」です
【第2章】 「よど号事件」で生き方が変わりました
【第3章】 日本の憲法と聖書には同じ精神が流れています
【第4章】 健康な人がどう老いていくか この問題が重要になると考えました
【第5章】 疲れたなどと言っている暇はないのです
【 対談 】 日野原重明先生×稲盛和夫さん 「医を仁術に終わらせてはならない」



聞き手=大西 康之

日経ビジネス2015年11月23日号 66~69ページより目次