イトーヨーカ堂は持ち株会社制になった2005年以降、苦戦が鮮明になる。鈴木敏文は、「自主マーチャンダイジング」が復活のカギだと説き続けた。 だが、祖業の病巣は根深く、創業家との確執の遠因にもなった。=敬称略

鈴木敏文(すずき・としふみ)
1932年12月、長野県生まれ。中央大学経済学部を卒業後、東京出版販売(現トーハン)入社。63年にイトーヨーカ堂へ転職。73年にヨークセブン(現セブン‐イレブン・ジャパン)を設立し、コンビニエンスストアを日本に広めた。コンビニに銀行ATMを置くなど、常識にとらわれない改革を実施。2016年5月にセブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO(最高経営責任者)から名誉顧問に退いた。人生観は「変化対応」。(写真=的野 弘路)

 イトーヨーカ堂は、名誉会長である伊藤雅俊の叔父、吉川敏雄が1920年に開いた洋服店「羊華堂」が起源だ。伊藤は戦後間もなく、母兄と商店を再興。現在のような衣食住を扱う総合スーパーとして事業を拡大し始めるのは、伊藤が米国視察を経てチェーンストア理論に傾倒していった60年代からである。

 それでも、衣料品は長らく、良くも悪くも常にヨーカ堂の「中心」だった。売上高に占める食品の割合が増えていたとはいえ、90年代中頃までは衣料品の割合は3割程度を維持していた。だが、その後は衣料品が低迷し、2016年2月期には売上高に占める比率は約15%まで落ち込んだ。ヨーカ堂は、衣料品と共に凋落したとも言える。

 1992年、総会屋事件で伊藤が社長を引責辞任し、副社長だった鈴木が昇格した。90年代は家電や衣料品など、ロードサイドの専門店が急成長した時期で、総合スーパーが冬の時代を迎える。ヨーカ堂の利益も下降線をたどるが、それでもダイエー、西友、マイカル、ジャスコといった競合他社と比べると、高水準を保っていた。経常利益額は2000年2月期までは他社と比べて倍以上。鈴木が1982年に始めた、在庫管理などを徹底する「業務改革委員会」の成果や、子会社セブン-イレブン・ジャパンの配当が下支えしていた。

 だが、2000年代に入ると、それまでの利益水準を保てなくなり、業績悪化に拍車がかかっていく。

 「業績が悪くなったヨーカ堂の社員の意識改革を図るため」──。2005年、持ち株会社セブン&アイ・ホールディングス設立の際、鈴木は語っている。それまではセブンイレブンの配当でヨーカ堂が潤い、ヨーカ堂社員には親会社としての意識が強かったという。持ち株会社にぶら下がる事業会社へと「格下げ」することで、奮起を期待した。

 しかし、思惑通りにはいかなかった。