(イラスト=五島 聡)

 話は1960年、張富士夫(現・名誉会長)と池渕浩介(元・副会長)の入社式に戻る。こののち、トヨタ生産方式を体系化した大野耐一の薫陶を受けるふたりを含めた新入社員を前にして、社長、石田退三は声を振り絞った。

戦場を知らない若造
トヨタ自動車第3代社長、石田退三。創業者・豊田喜一郎の後を受け、経営危機に陥ったトヨタの再建に尽力した(写真提供=トヨタ)

 「諸君、当社はやっと月産1万台を達成した。年間では10万台だ。喜ばしいとは言える。

 しかし、GMは369万台だ。いいかね、貿易が自由化されて、GM以下のビッグ3が日本のマーケットに入ってきたら、我々はひとたまりもなくやられてしまう。諸君、我々はこれから死ぬ覚悟で闘わなきゃならん」

 太平洋戦争の開戦前のような、悲壮な雰囲気の入社式だった。

 石田の言葉を聞いた池渕は当時のトヨタについて「会社中に危機感が満ちていた」ことを覚えている。

 「私たちは戦後世代です。実際の戦争は知りません。だが、入社してみたら、アメリカと戦場で闘っていた人たちがまだたくさんいました。軍隊帰りですよ。その人たちはアメリカの強さを戦場で体験していた。自動車作りでアメリカに勝とうと思ったら生半可な努力ではダメだとわかっていたのでしょう。

 そんな人たちから見たら、僕らは戦場を知らない、へなちょこの若造だった。あの人たちが俺たちを見る目は『こんな若造でも徹底的に鍛えてやらにゃならん。そうしないと、トヨタはつぶれる』というものだった。大野さんは戦争には行ってません。でも、僕たちを鍛える時はスパルタ教育そのものでした」

張富士夫(現・名誉会長、左)と池渕浩介(元・副会長)は1960年にトヨタに入社。のちにトヨタ生産方式を体系化した大野耐一の薫陶を受ける(写真提供=トヨタ)

 入社して数年後、大野の下に配属された張と池渕のふたりはトヨタ生産方式を徹底的に叩き込まれた。それも座学で教わったわけではない。現場である。

 「ついてこい」と言われて大野の後を歩く。大野は現場を回ってムダを見つけ、カミナリを落とす。大野でなければ同じことを部下の鈴村喜久男がやる。張と池渕のふたりは黙って見ているか、もしくはその後のフォローを担当した。

 道場主(大野)と師範代(鈴村)が弟子を連れて、実戦の場で教育したのである。

鬼の雷
トヨタ生産方式を体系化した大野耐一。社内の強い反発を受けながら、一切妥協することなく、現場のカイゼンに取り組んだ(写真提供=トヨタ)

 張は大野に出会ったとたんに雷を落とされた。入社後、総務部の広報課に勤務し、社内報の編集をしたり、工場見学に来る小学生を相手にしていた彼は7年目に生産管理部に移った。係長になってやったことは先輩に言われたまま、トヨタ社内で作っていた部品の数々を社外の協力企業に発注することだった。

 先輩からの申し送りは次のようなものだった。

 「少量で、しかも作るのに技術がいる部品はすべてサプライヤーに頼め。社内で作るのは量産しやすい単純な部品だけだ」

 なるほどと思った張は車の部品で難しそうなものを見つけたら、「外注します」と稟議書を書いては上司に持っていった。上司も素直にハンコを押す。それが毎日の仕事だった。

 半年後、生産管理の担当役員が大野に変わった。上司は真っ青になった。

 「おい、大変なことになった。鬼がやってくる。

 いいか、お前のような若造は近寄らないようにしとけ。何を言われても、下を向いてろ。絶対に返事はするな。はい、いいえも言うな。黙ってろ。怒らせたら大変なことになるぞ」

 大野が部屋にやってきた。

 張が書き上げた書類を見ているうちに、真っ赤な顔になるのがわかった。机を叩いた。

 「きさまら、これはいったい、何の真似だ」

 上司が飛びあがって、「常務、何か間違いがありましたか?」とおそるおそる訊ねた。

 大野が怒鳴った。

 「バカもん、お前たちはどうして、やりにくい品物ばかり外注に出すんだ? うちの工場はどうして、こんな簡単な部品ばかりを作らにゃならんのだ」

  「常務、申し訳ありません。張は文科系だから、技術のことはよくわからんのです。すぐに書き換えさせます。なっ、張、お前、常務に謝れ」

 はしごを外された形の張はわけもわからず、とにかく頭を下げた。

 大野はだいたいの事情は分かっとるといった顔で、珍しく温和な表情で説明を始めた。

 「いいか、キミ。車の部品、3万点のうち7割は購入部品だ。7割を安くしなければ原価は下がらない。だから、作りやすい部品こそ外製にするんだ。

 作りやすいから彼らはがんばって原価を下げる。社内で作る3割は手間のかかる部品だけにする。難しいものに挑戦して原価を下げるのが俺たちトヨタ社員の仕事だ。

 わかったら、稟議書をいますぐ全部、書き直せ」

 張は「わかりました」と答えた後、このおっさん、言ってることは実にまっとうだなと思った。おっさんのことは信頼できると感じた。

 その後、大野が亡くなるまで、ふたりは師弟として長い付き合いをすることになる。