(イラスト=五島 聡)

 1955年、トヨタはクラウンを発売した。前輪独立懸架の他、後輪は3枚板バネ懸架方式を採用。前輪と相まって悪路での乗り心地の良さを達成した。

観音開きのクラウン

 操作ではダブルクラッチを踏まなくても変速できるシンクロメッシュ付きの常時かみ合い式トランスミッションを採用。運転しながらのクラッチ操作がぐっと楽になった。

 また、なんといっても特徴は「観音開き」と呼ばれたドアの採用だ。観音像を納めた厨子の扉が両開きになっていることから付けられた名前だが、タクシー会社は「乗客が乗り降りしやすい」と歓迎した。業務用を意識したドア設計だったのである。

 このように中村健也たち開発グループは市場調査をした結果を踏まえ、さらに世界でも最先端の技術を組み込んでクラウンを作った。

1953年4月、豊田英二、齋藤尚一、両技術常務の連名で発せられた「RSに関する件」によって、クラウン生産へのギアが入った。(写真提供=トヨタ)

 なんといっても当時、日本でノックダウン生産されていた海外メーカーの車はいずれも設計が古いものばかりである。日産のオースチン A40は本国では1947年に発売された型の後継モデルだし、日野のルノーは1946年に設計されたものだった。日本人は「外国製品は上等」と思っていたけれど、新車のクラウンはヨーロッパの車と比べてもそん色がないどころか、性能では上回っていた。

RSとRR
クラウンの開発を託された中村健也らが試作を重ねたのち、1955年に自家用車向けのトヨペット・クラウンRS型(上)と、営業車向けのトヨペット・マスターRR型(下)が発売された(写真提供=トヨタ)

 売り出されたクラウンには2種類があった。RS型トヨペット・クラウンは自家用車向け、RR型トヨペット・マスターはタクシー、つまり営業車向けだった。どちらにもRが付くのはR型という新型エンジンを積んでいるためである。

 発売した1955年、「両車種を合わせて月産1000台」が目標だったが、実際には600台しか売れなかった。「本格的国産乗用車」と玄人には評判がよかったのだけれど、売れ行きはなかなか伸びていかなかった。

 だが、年が明けたら販売台数は急増する。発売と同時に買ったタクシー会社の運転手たちが「お客さんが乗り心地がいいと言っている」とアナウンスしたため、追随して購入するタクシー会社が増えたのだった。

 クラウンは月産約800台のヒットとなり、10月には自家用車向けのクラウンだけで月産1000台になった。すると、今度はまた顧客のタクシー会社から「営業車用のマスターより、お客さんは乗用車のクラウンに乗りたがっている」と要望が出た。

 そこで、個人オーナー向けを改良したクラウンのデラックス版(RSD型)を出したところ、この車もまた売れに売れ、タクシー会社もまたこちらのデラックス版を購入した。

 結局、初代クラウンはマイナーチェンジを繰り返し、7年の間、国産乗用車としてもっとも売れた車になった。

 ちなみにRSD型クラウンの販売価格は101万4860円。公務員初任給が8700円だったから、その116倍にあたる。普通のサラリーマンが10年間、懸命に働いてやっと買うことのできる価格だった。

 クラウンが出る前まで、トヨタの乗用車はAA型、SA型といったアルファベットや数字が車名だった。SA型は毎日新聞が主催した名古屋から大阪までの急行列車との競争で知られたが、世間の人々が認識したのはトヨタという社名であり、車の型式までは記憶にとどめていない。