そうしたなか国内の自動車各社は海外メーカーと提携して、性能のいい車を日本に導入しようとしたのだが、トヨタだけはその道を選ばなかった。

 「日本人の頭と腕で自動車をつくる」のが創業者の豊田喜一郎の本懐だったから、社長の石田退三、常務の豊田英二も提携などはなから考えていなかった。

 そして、社内では生前、喜一郎が指示した乗用車の開発が始まっていた。しかし、まだ社内の大勢がそれを知っていたわけではない。

 現場の改革に奔走していた大野耐一もその新型車のことは噂に聞いていたけれど、ラインではトラックの生産を増やすことに集中していた。

喜一郎の夢

 豊田織機時代から喜一郎の夢は日本人の頭と腕で本格的な大衆車を作ることだった。しかし、結局、生きている間に夢はかなわず、志を受け継いだのは副社長となり技術を総括していた英二である。

 英二は本格的な国産乗用車を開発するために設計部だけではなく、生産技術からも技術者を呼び、横断的な開発集団を作った。トップに開発主査という新しい名称をつけ、清新な気持ちを技術者集団に与えた。初代の開発主査になったのは途中入社のエンジニア、中村健也だった。

<b>クラウンの開発主査を務めた中村健也(左)。写真はR型エンジンを検討しているところ</b>(写真提供:トヨタ)
クラウンの開発主査を務めた中村健也(左)。写真はR型エンジンを検討しているところ(写真提供:トヨタ)

 中村は兵庫県西宮市の出身。長岡高等工業学校電気工学科(現・新潟大学工学部)を出て、最初はクライスラーの車を組み立てていた共立自動車製作所に入った。組み立てだけではつまらない、国産自動車の開発をしてみたいと思い、中村は4年で同社をやめた。失業中、自動車雑誌に載っていた喜一郎の投稿記事を読む。

 「この人の下で働きたい」と直感し、トヨタを訪ねた。運のいいことに、トヨタは挙母工場を作ったばかりで、技術者を探していた。喜一郎の面接を受けた中村は無事、入社し、車体工場で溶接機の担当となる。

<b>中村が10年かけて開発した日本最大の鋼板用2000トンプレス機</b>(写真提供:トヨタ)
中村が10年かけて開発した日本最大の鋼板用2000トンプレス機(写真提供:トヨタ)

 その後、中村は住友機械製作(現・住友重機械工業)と協力して挙母工場で使うための2000トンプレス機の開発に着手した。戦争で一時中断したけれど、戦後の1951年にはこれを完成させている。当時、日本最大の鋼板用で寿命は長く、いまでも使われている。現在もタイにある協力会社でトヨタ車のフレームを打ち出している。

 ポートレートを見ると、中村の風貌は「王様と私」で知られるロシア生まれの俳優、ユル・ブリンナーにそっくりだ。目鼻立ちがくっきりとした男で、頭はスキンヘッド。いかにも鼻っ柱の強そうな顔をしている。事実、そうだったようで、さまざまなエピソードが残っている。

 背広やネクタイとは無縁だったが、服装にだらしがないわけではなかった。現場でも事務所でもカーキ色のナッパ服に、パリッとした真っ白のワイシャツを着る。それが中村流のおしゃれだった。合理的というのか、変人なのか、かなりの雨が降っても絶対に傘をささなかったことで知られていた。どしゃ降りのなかでも、両手を身体の側面にピタリとつけてどんどん歩いていく。

 彼の部下だったこともある豊田章一郎(現・名誉会長)は不思議に思って聞いてみた。

 「中村さん、どうして傘を差さないのですか?」

 中村は「うん」と嬉しそうな顔で答えた。

 「章一郎くん、いいかい、雨の日に手を振って歩くと袖まで濡れる。しかし、ほーら、ぴたりとくっつけていれば頭と肩しか濡れないんだ。なっ、いい考えだろう?」

 章一郎はそんなことをせずに傘を差せばいいのにと思ったけれど、余計なお世話だと思ったから、「はあ?」と答えておいた。

 だが、鼻っ柱の強さと人と違うユニークな考え方をするくらいが新車の開発には向いていたのだろう。英二に抜擢されて主査になった中村は「時流に先んじて創造する」という豊田綱領を体現して独自の開発方法を作りあげた。

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