(イラスト=五島 聡)

 1951年頃から日本の道路を走る車の種類は増えていった。敗戦直後の主役だったジープ、その後に続くオート三輪、国産トラックに加えて、海外の自動車会社が設計した乗用車が登場してきたのである。

海外提携と対面通行

 ただし、個人が買ったものではない。タクシー会社が業務用に購入したものがほとんどだった。それも、海外で生産された車ではなかった。海外メーカーと技術提携した日本の自動車会社が部品を輸入してノックダウン生産したものだった。

1951年、東日本重工がアメリカのカイザー・フレーザー社と提携して発売した乗用車「ヘンリーJ」(写真提供:トヨタ博物館)
1953年、日野ヂーゼル工業がフランスのルノーとの特約により、4CVの組み立て生産を開始した(写真:毎日新聞社/アフロ)

 1951年には三菱重工から分割された東日本重工がアメリカのカイザー・フレーザー社との提携により、乗用車ヘンリーJを発売。1953年には日野ヂーゼル工業がフランスのルノー4CVを組み立て生産した。同じ年には日産がイギリスのオースチン、いすゞがイギリスのヒルマン・ミンクスをそれぞれノックダウンして売り出した。

 こうした車はいずれも日本の道路事情に合わせた小型車で、オースチンは1200cc、ルノーは750ccである。価格はオースチンが112万円でルノーが73万円。対して、トヨタが売っていたSF型トヨペット(1000cc)は95万円だった。公務員初任給が7650円(1952年)の時代である。

 これより少し前のこと、国内を走る自動車の増加に伴って、日本の交通規制が大きく変わった。GHQ(連合国軍総司令部)の指導により、「人は右、車は左」という対面通行が実施されたのである。

 明治時代から敗戦直後まで日本の道路では人、車(人力車、軽車両、自動車)はどちらも道路の左側を通行することになっていた。人は道路の左側を歩き、後ろから自動車が追い越していったのである。なぜ、人が左側を歩いていたかと言えば、刀を差した武士がすれ違う時、右側通行だと「刀と刀がぶつかる」からだという。それで、日本人は左側を歩くことになっていた。

 占領を始めた当初、GHQはアメリカに合わせて車は右側を走らせようとした。だが、信号や標識を変えるには膨大な予算がかかることがわかり、「貧乏な敗戦国には不可能」と判断する。そこで、人は右、車は左という英連邦の国家と同じ対面通行が始まったのである。