退三の提案

<b>石田退三は豊田英二にアメリカ留学をすすめ、次代を託した</b>(写真提供=トヨタ)
石田退三は豊田英二にアメリカ留学をすすめ、次代を託した(写真提供=トヨタ)

 退三は社内に向かって「わしはこの機会に儲けるだけ儲けてみせる」と声を大きくし、喜一郎のいとこ、豊田英二を呼ぶと、「提案がある」と言った。

 「英二くん、キミはアメリカへ行ってくれたまえ」

 英二は黙って、話を聞いた。

 退三は上機嫌で演説を始める。

 「いいかね、特需が終わったら、トヨタはいよいよ三河から出て、天下を狙う。そのためにキミはフォードを見に行ってくれ。これは本来、喜一郎さんが神谷(正太郎)君に命じて伝えていたと思うが…。

 わしは喜一郎さんに成り代わって、キミのアメリカ留学をすすめる。英二くん、本場のやり方を吸収し、本場の生産設備を見てきてくれ」

 退三は「トヨタの番頭」と言われている。しかし、番頭ではあっても、使用人根性は持っていなかった。任期中の経営数字を達成することが退三の目的ではなく、トヨタという会社を盤石にするために先を読んでいた。同業の日産、いすゞが目の前の儲け仕事に突き進んでいるうちに、次の一手を考え、将来のトヨタのためになることを実行に移していた。英二をアメリカに送るのは未来のトヨタのためだったのである。

実習生第一号

 英二がアメリカへ向けて出発したのは朝鮮戦争が始まった後だ。飛行機で行ったのだが、むろん直行便などはない。グアム島、ハワイを経由してアメリカ本土へ。パスポートも「日本人」ではなかった。「連合軍が占領した国の日本人」と記されており、そのページを見ると、英二は「日本は独立国じゃないんだな」と痛感した。

 その年、海外に出た日本人の数はわずか8255人(1950年)である。外務省の職員をはじめとする公務員が大半で、民間企業の人間が技術習得のために出かけるなんてことはほぼなかった。

 当時のトヨタは名古屋の中小ベンチャーだ。それくらいの規模の会社がいくら常務とはいえ、アメリカに視察に行かせるなんてことは分不相応だったのである。そういうところを考えると、石田退三は田舎の頑固おやじのような風貌だけれど、大財閥の経営者よりもはるかに開明的だったと言える。

 当初、英二の渡航はフォードとの技術提携が目的だった。下準備のためにはトヨタ自販社長の神谷正太郎が先発していた。英語が得意の神谷が交渉をし、英二は契約書にサインをすればいいといった状態でアメリカに到着することになっていたのである。

 ところが、わずか半月、渡航が遅れたために風向きが変わっていた。

 現地に着いた英二は神谷の顔を見て、何か良くないことがあったのではないかと直感した。

 「神谷さん、ところで、この後はどうすればいい?」

 神谷は言いにくそうに打ち明けた。

 「英二さん、技術提携は白紙になりました」

 「うん、どうして?」

 訊ねる英二に神谷は答えた。

 「朝鮮戦争です。アメリカ政府はフォードに海外投資をやめさせ、さらに技術を流出させないため、幹部社員を国外に出さないと決めた。事実上の禁足令なんですよ」

 「すると、僕はどうすればいいんでしょうか、神谷さん」

 「戦争ですからね。フォードもなんともできないでしょう。しかし、向こうも気の毒に思ったようで、提携はできないが、代わりにトヨタの技術者を受け入れるとは言っています。少なくともあなたは技術を学ぶことはできるのです」

 結局、英二はトヨタの第一号実習生としてフォード工場を見学することになった。彼は技術のトップだから、視察して帰れば部下に伝えることができる。誰が現場を見るより、もっとも適任だと言えよう。英二はほっとして、勇躍、フォードの工場へ向けて出発した。

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