(イラスト=五島 聡)

朝鮮特需

 豊田喜一郎がトヨタ社長を辞任した1950年から始まった朝鮮戦争は、翌51年の春から膠着状態に陥り、7月から板門店で休戦会談が始まった。

朝鮮戦争は大量のトラックを必要とし、日本経済全体にも特需をもたらした(Photo by Interim Archives/Getty Images)

 会談が終了したのは53年の7月。戦争が続いた3年と1か月の間、韓国軍の死傷者は95万人、北朝鮮軍が61万人だった。参戦した中国軍兵士の死傷者は50万人、米軍は40万人。そのほか、国連軍に属する兵士の死傷者が40万人。民間人の行方不明者は200万人にも上った。

 長期になった戦争の結果、国連軍が使った弾薬の量は太平洋戦争でアメリカ軍が日本に落とした爆弾の量よりも多かった。

 隣国にとっては大惨事だったが、日本経済には特需をもたらし、戦争の間、現在の水準にして約20兆円から30兆円の有効需要が続いたとされる。日本国内の景気はこれで一気に回復した。

 約3年間の朝鮮戦争の結果、日本の産業界には11億3600万ドル(特需契約高)が入った。1ドル360円とすると、4089億円。

 そして、日本の産業界が得たのは金だけではなかった。国連軍は不良品を一切、受け付けなかった。戦場で部品が壊れてトラックが止まったら、兵士の命にかかわるからだ。このため、トヨタ、日産をはじめとする各社は大量生産システムと同時に品質向上を学んだ。トヨタには創業以来の不良品追放の精神があったが、朝鮮戦争の特需生産で不良品を出さないことを徹底する作業を覚えた。

 不良品追放はいくら掛け声をかけても実現しない。厳しい客からの指摘、クレームを通じて学ぶことだ。特需の発注元だった国連軍、つまり、アメリカは金は出したけれど、不良品には非常に厳しい態度で臨んだのである。

朝鮮特需をつかんだトヨタのBM型トラック(写真提供=トヨタ)

 景気がよくなると今度は国内の輸送手段であるトラックの需要が高まった。

 「トラックを今月中に納車してくれ」と言ってくる客は引きも切らず、製造現場は連日、2時間の残業体制を敷くことになったのである。

 朝鮮戦争が休戦になってからも、アメリカ軍へのトラック納入は続いた。アメリカ軍が直接、使用したのではなく、フィリピン、タイ、インドネシア、南ベトナムなどへの軍事援助としての車両だった。日産、いすゞも同じようにアメリカ軍への納車を続けたが、もっとも数が多かったのはトヨタだった。

 トヨタ自工の第22期事業報告書(1950年4月から9月)は特需による業績の急回復を伝えている。

 「過去に於いて常に経営上の重い桎梏(しっこく)となって居た自動車の販売統制価格が四月中旬撤廃されたので、朝鮮動乱勃発後素材、部品、タイヤ等累次の価格騰貴にもかかわらず自動車販売価格を改訂することによって随時採算を是正することが出来、需要並(ならび)に生産の上昇と相俟(あいま)って、争議解決後、業績は逐月向上するに到った」

 アメリカ軍に納めた車の販売代金は必ず払ってもらえる金だ。銀行団は貸した金が戻ってくることを実感したので、社長の石田退三に「ああしろ、こうしろ」と言うこともなくなったのである。