販売会社を設立

 日銀名古屋支店が音頭を取った銀行団の協調融資で一息ついたトヨタだったが、経営状態は低空飛行のままだった。そこで、具体的な再建案をトヨタと日銀で作ることとなり、3つの方針ができた。

 A 販売会社の設立、トヨタとの分離
 B 販売の裏付けがある台数の生産
 C 過剰とみなされる人員の整理

 ポイントは販売会社の設立と人員の整理である。

 販売会社を作ると決めたのは、車を製造する資金と販売にかかわる資金を分けようということだった。急場に融資した銀行団としては車を作るための金ではなく、売った代金が入って来るまでのつなぎ資金という認識でしかない。販売が正常化したらすぐにも返してほしい金だったのである。月賦販売を正常化させるための金を車の製造に使われては当分の間、戻ってこないから、それを避けるため、日銀及び銀行団は販売会社の設立を希望した。

 対するトヨタ社長の豊田喜一郎は労働組合との経営協議会で販売会社設立について、社内に次のような話をしている。

 「一、金融界のトヨタの経営に対する不信用。二、自動車産業の前途の不安。三、月賦金融にならず滞貨金融になると考えられていること。

 即ち、トヨタに対する不信用は、技術が経営に先行していること(逆に言えば現在では金融あっての経営であり、技術である)ということと、トヨタに融資してもその使途が不明確であるということにある。

 更に金融筋は、以上の点を是正するため、トヨタの経営陣に人を送りたいと云う意向もあり、これらのことについて去る(1950年)2月18日に金融業者との懇談会を行った。更に我々としては、第一に金融筋への信用回復すること、第二に技術の先行を是正して経営をスッキリした形にしたいと思うので、既に経営陣を対外的にも対内的にも強化し、更に販売会社の設立を一日も早くと努力しているのである」

 「更に」ばかりが続く文章だが、ここに表れている喜一郎の気持ちは「トヨタは金融機関に信用がなくなった」「私自身、金はすべて技術につぎ込んできた」のふたつだろうか。

 もうひとつ、話をしながら、自分自身に問うことがあるとすれば、それは「果たして自分は経営者に向いていたのだろうか」という疑問かもしれない。

 ──私は自動車の技術には誰よりも詳しい。質のいい自動車を作るとしたら自分しかいない。けれど、金集めは下手だ。そのままでいいのか…。いや、しかし、販売会社を神谷(正太郎)にやらせて、私はこれまで通り車の製造に力を注ぐ。販売会社さえ作ってしまえば急場を乗り切ることができる。いや、乗り切ることができるだろう。

 こうした考えがその時の喜一郎の気持ちではないか。

 喜一郎は販売会社を作れば、人員整理しなくとも銀行はトヨタを助けてくれるに違いないと、どこか思い込んでいた。いや、そう思うようにしていた。

 だからこそ確信をもってトヨタ自動車販売を設立し、社長には神谷正太郎を起用したのである。もっとも誰が見ても販売会社のトップには神谷しかいなかった。彼ほど販売に詳しい人間はいなかったし、日銀名古屋支店長を口説いたように交渉力もある。銀行マンも神谷なら納得する。

1950年4月にトヨタ自動車販売が発足。初代社長には“販売の神様”神谷正太郎が就任した(写真提供=トヨタ)

 こうして1950年4月にトヨタ自動車販売が発足した。本来ならばトヨタ自工が出資するべきなのだが、制限会社に指定されていたため出資はできなかった。神谷をはじめとする販売部の人間が個人で借金して新会社の資本金を作ったのである。トヨタ自工が株主になったのは制限会社を外れた1952年からだ。

 日銀、銀行団は販売会社の分離には満足した。とにもかくにも融資した金が製造に回ることはなくなったからだ。

 トヨタの苦境は車が売れないことではなく、不況のため月賦で買った客からの支払いが途絶えたことだった。販売会社につなぎの資金を提供すればいずれ返ってくる金だった。