(イラスト=五島 聡)

 1949年2月、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが来日。3月にドッジ・ラインと呼ばれる経済政策を日本政府に勧告した。赤字だった国家予算を均衡予算に変え、各種補助金を止めたことで、物価は安定に向かったが、民間企業は資金繰りに困り、全国で1100社以上が倒産した。

ドッジ・ライン不況

 そんな1949年、ドッジ・ラインが始まった年は自動車産業にとって、まったく厄年だった。まず、ドッジ不況でトラックが売れなくなった。

 地方の役所、運輸業、中小企業といったトラックの顧客層が不況で契約を取り消し、在庫が増えてしまった。トヨタは7月から8月にかけての在庫が400台を超えた。8月には石炭の配給統制が撤廃、9月には製鉄用の原料炭に支給されていた補助金がドッジ・ラインにより廃止された。そのため石炭と鉄の価格が上がった。ちなみに鉄鋼の統制価格は37パーセントも値上げされている。

 「原料が上がったのなら自動車も価格を上げればいい」

 当たり前の理屈なのだが、自動車だけは翌50年の4月まで従来通りの価格で売らなくてはならなかった。不思議なことに自動車だけは統制価格が温存されたのである。

 炭鉱、鉄鋼業という老舗の業界にはGHQ(連合国軍総司令部)や政府を動かす力があった。しかし、その頃の自動車業界はベンチャーである。必死になって政府に働きかけたが、思うような返事は来なかった。もっとも、この時に値上げしたら、車はもっと売れなくなっていたかもしれない。

 トヨタの創業者、豊田喜一郎は現場に出るのをやめ、幹部と一緒に販売に精を出し、売掛金の回収に走った。また、資材が上がった分を原価を低減して節約しようと図った。それでも鉄鋼は4割近くも上がっているのだから、いくら節約しても限度がある。毎月2200万円もの赤字が続くことになってしまった。

 当時の公務員初任給は4863円(48年)。2200万円の赤字垂れ流しはトヨタの体力を徐々に奪っていく。それでもなんとか続いていたのは本家の豊田織機が「ガチャ万景気」という綿業の好況で大儲けしていたからだった。

 だが、戦前、トヨタと並んで自動車御三家と呼ばれたいすゞ、日産にはそれほどの体力はない。まず、音を上げたのは、この2社だった。

 当時、3社のシェアはトヨタが42.5パーセント、日産38.2パーセント、いすゞが15.4パーセントである。3社がトラック市場を独占していたのだが、どこも内情は苦しかった。日産、いすゞはトヨタにおける豊田自動織機のように儲かっている関連会社を持っていたわけではない。赤字構造を断ち切るためには人員を整理してコストカットするしか道はなかった。

 そこで、いすゞは9月に1271人の人員整理を発表する。従業員5474人の約23パーセントという規模だ。続いて10月には日産が1826人の人員整理、加えて賃金カットを決めた。これもまた日産の従業員8671人の約21パーセントである。日産はいすゞの会社側提案を参考にしたと思われる。