(イラスト=五島 聡)

語りかける喜一郎

 戦後のトヨタ挙母(ころも)工場の内部は薄暗かった。建屋の上部に明かりを取るための窓ガラスがあるくらいで、窓の近くの人間は外光で仕事ができたが、中央部で作業する人間には手元が暗く感じた。そこで建屋の中央部には裸電球をぶら下げて照明にしていたのである。

 大野耐一が担当していた第2、第3機械工場はギアやアクセル関係の部品を作るところだ。旋盤、ボール盤、フライス盤などを使って金属を切削加工する。ボディ用の鋼板をガシャーンという音で押しつぶすプレス工場ほどの喧騒はないが、金属が削られる時のキィーンという音があふれる仕事場だった。

 そんな騒音がする工場に、創業者の豊田喜一郎はひとりで足を運んではラインの作業者に語りかけた。

 「どうだい?」

 「暗くはないか? もっと電球をつけた方がいいか?」

 喜一郎という人のキャラクターをあらわす資料は少ない。だが、いとこの豊田英二、長男の豊田章一郎の洩らした感想から察すると、技術屋であり、とても冷静な人と考えられる。時にシニカルともいえるくらい、物事を客観的に見ている人物のようだ。カラフルなエピソードはなく、酒を飲む男で高血圧症。彼を知る人物が口をそろえて言うことは「現場が好きだった」こと。

 だが、そういう男が自動織機の製造会社から自動車会社への転進を指揮した。喜一郎は学者のような技術者ではなく、彼の父親、豊田佐吉がそうであったように、思い込みの強い天才肌の人物だったのではないだろうか。そうでなければ、財産をなげうって自動車会社などやらない。見かけは静かであっても、激しい感情を抱いていたと考えられる。

中間倉庫を廃止

 改革を始めた頃、大野は喜一郎と現場でよく会っていた。だが、ふたりは話し込んでいたわけではない。喜一郎は大野の仕事を目で見て判断していたようだ。

 その頃の大野はとにかく実績を出そうとしていた。改革はやったけれど、多能工を作ったくらいでは生産性は上がらなかったからだ。現場は生きもので、つねに動いている。次々とさまざまな手を打っていかなければならなかったのである。

 まず断行したのは中間倉庫の廃止だった。ジャスト・イン・タイムを実現するには、機械工場では必要な数だけ部品を作り、それを組み立て工場に持っていくしかない。

 組み立て工場で何台、車を作るのかを前日の夜に確認する。そうして、朝、現場の作業者がやってきたら、「組み立て工場で使う分だけ作れ」と指示する。

 「時間が余ったらどうするんですか?」

 そう工長、組長が訊ねてきたら、大野は答えた。

 「そこらへんの掃除でもしておけ。もしくは、じっとしていろ。とにかく必要な数以上は作るな」

 もちろん最初は混乱した。部品を作る材料が納入されなければ部品を作ろうと思っても、やることがない。それでもある日、大野は決心して、機械工場内にあった倉庫をひとつ残らず撤去したのだった。

 「部品が完成したらそのまま組み立て工場へ運べ」

 それまで組み立て工場の作業者は部品がなくなったら、機械工場内の中間倉庫に取りに行っていた。しかも、それをそのまま車に取り付けるのではなく、一度は組み立て工場内の中間倉庫に保管していたのである。

 みんなで無駄な仕事を作っていたとも言える。ジャスト・イン・タイムの正反対の作業だった。

 大野は機械工場の倉庫を取り払ってから、経営会議で「中間倉庫はやめます」と予告をした。喜一郎は「やってみろ」と賛成した。だが、幹部のひとりから「時期尚早ではないか」という異議が出たのである。

 理由は思いもよらぬことだった。

 当時のことを大野は次のように思い出している。

 「中間倉庫があった頃はよく部品を盗まれた。終戦直後は純正部品がすごく高かったんだ。盗むと町ではとにかく高く売れた。中間倉庫の帳面にはあっても実は数はあってない。警察からは、犯人がつかまったので始末書を書きなさいと言ってくる。倉庫には金網を張ってカギまでかけてあるんだけど、盗む方が一枚上手ですよ。

 だから、中間倉庫をやめると言ったら『部品がもっと盗まれる。時期尚早だ』と…。僕は幹部に『それでいいじゃないですか』と言ったんだが…」

 上司に面と向かって言い放ったわけだから、大野の言葉を聞いた幹部は「生意気な男だ」と思ったに違いない。

 それでも大野は考えを変えなかった。

 「盗まれるような在庫を持たなければいいんだ。できあがった部品はすぐに組み立てに運んで車にすればいい」

 だが、この試みが軌道に乗るには時間がかかった。組み立て工場では送られてきた部品をすべて使うことができず、倉庫に入れるしかなかった。ただし、機械工場が倉庫をなくしたことは連携する組み立て工場に大きな影響を与えたのである。