(イラスト=五島 聡)
(イラスト=五島 聡)

 戦争直後のトヨタが生産していた車は、SA型トヨペット(乗用車)よりもむしろ、SB型トラックだった。挙母(ころも)工場にベルトコンベアを敷いたラインはあったけれど、活用されていたとは言いがたい。部品がスムーズに手に入る状況ではなかったし、何よりも生産のシステムが確立されていなかった。それぞれの工場では工場長がフォード・システムを手本に、各工場のなかだけで効率を追求していたのである。

増え続ける中間在庫

 だが、有機的に連携していなかったために、たとえば、機械工場でアクセルが計画以上にできたとする。作りすぎのため組み立て工場ではすべてを消化できない。すると、工場と工場の間で保管をするためのスペースが要る。管理する人間も必要になる。

 部品が足りなければ作業者は手持ち無沙汰になるだけだが、作りすぎてしまうと、それを保管しておくためのスペースや人間が必要になってくる。必要な量だけ作り、次の工程に送るのがもっともムダがない。だが、個々の作業者たちは「自分たちは頑張って働いている」という意識がある。言われたことをやった結果、中間在庫がたまってしまったのだから…。

 現場の生産性を高める方法を模索していた大野耐一は、増え続ける保管スペースに危機感を持った。トヨタでは、このままフォード・システムの亜流を続けていいのかと大いに疑問を持ったのである。

 「いったい、アメリカでは膨れ上がる中間在庫をどうやって解決しているのだろうか」

 月の初めに決められた目標数を設定し、それに合わせて生産していると、必ず必要以上の数ができてしまう。

 大野はつねにジャスト・イン・タイムの実現を考えていた。それにはまず中間在庫ができる仕組み自体をなくさなければならない。もう一度、フォード・システムを徹底的に理解してみようと思ったのである。

 なにしろフォード・システムもしくはその亜流を採用していたのは当時のトヨタだけではない。日産はアメリカ人エンジニアから教わったフォード・システムを土台にした生産システムを使っていたし、いすゞも同様。そして、どこの工場でも中間在庫はあった。同じシステムをもとにしていたのだから、同じ事態に陥っていたのである。

<b>トヨタのSA型乗用車(左)とSB型トラック</b>(写真提供=トヨタ)
トヨタのSA型乗用車(左)とSB型トラック(写真提供=トヨタ)

T型フォード神話

 フォード・システムとは大量生産に向くやり方だ。しかも、少品種の方がいい。同じ色、同じ型の車をベルトコンベアを使った流れ作業で組み立てていく。アメリカに限らず、当時、先進国の大量生産による組み立て工場ではフォード・システムが当たり前だった。

 そこまで神格化されたのは何と言ってもT型フォードという成功例があったからだろう。

 T型フォードは1908年に発売され、18年間で1500万台が売れた。アメリカを代表する車で、大陸の東部から西部にいたるまで、どこの町でも見かけたベストセラーカーだった。そして、これほど売れたのはずばり価格が安かったからである。

 アメリカ国民の平均年収が600ドルとされた時代、同車の価格は850ドルだった。それまで乗用車の値段は2000ドルを下回ることはなかったから、最初から破格の価格だったわけだ。加えてT型フォードは毎年、値下げになり、1925年には290ドルになっている。大量生産で価格を下げた典型だった。そこで、量産品を作る製造工場は先を争ってフォード・システムを採り入れたのである。

 では、フォード・システムとはどういうものだったのか?

 ヘンリー・フォードがフォード・システムを完成したのは1915年のことである。その年、デトロイト郊外にあったハイランドパーク工場の床面には連続駆動するベルトコンベア(スラットコンベア)が敷設された。働く人間はベルトコンベアに載って動いてくる部品を車のシャシーに取りつけた。

 それまでは人間がシャシーを台車に載せて移動させ、そこに部品を付ける方式だった。製造業に本格的にベルトコンベアが導入されたのはこの時からである。

 流れ作業は、フォード自身がシカゴの食肉加工場を見学した時にヒントをつかんだと言われている。当時、食肉加工場では流れ作業で牛を解体していた。屠畜された牛は天井に敷設されたレールからチェーンで吊るされ、少しずつ移動する。その間、小さな部位に切り分けられていった。

 ヘンリー・フォードはその様子を見て、「この流れを逆転すればいい」と思ったのだろう。ただ、「食肉工場を見たというのは俗説」とも言われている。

 だが、わたしはフォード自身が見たかどうかは別として、流れ作業が生まれたヒントは牛の解体方法が先例だったと思う。流れ作業になる前、牛の解体も据え置き方式だった。一頭の牛をテーブルに載せて、少しずつ切り取っていったのである。自動車を組み立てるのと同じだ。それを流れ作業にしたのがシカゴの食肉加工場で、ヘンリー・フォードはそこから学んだというのは納得できる話ではないか。

<b>1920年代のフォード自動車工場の様子</b>(写真=Ullstein bild/アフロ)
1920年代のフォード自動車工場の様子(写真=Ullstein bild/アフロ)