(イラスト=五島 聡)

 自動車工場に転籍してきた大野耐一が直感したのは「紡織工場よりも生産性がよくない」ことだった。

 「織物女工ならばひとりで20台の織機を見ることができる。しかし、自動車の工場はダメだ。ひとりが機械の前に突っ立って、ひとつのことをやっている。ある者は忙しく働き、その隣の者はやることがないから旋盤のバイトを研いでいたりする。それでいいのか。余った部品はラインのそばに積み上げて置いたり…。だらしがない。こんなことではいかん。さて、まずはどこから始めるのがいいのか…」

来なければ、作りに行く

 ある時、大野が組み立て工場のラインにいたら、作業は止まった。作業者に訊ねると、「アクセルとハンドルの在庫がありません」と答えた。

 「それなら第3機械だな」

 第3機械とは機械工場のことだ。機械工場とは自動車の部品を製造する工場で、挙母では第1がエンジン、第2はギア(歯車)、第3はシャシー関係、フロントとリアのアクセルを作っていた。

 大野は「おい、第3へ行くぞ」と養成工出身の若い作業者を数人、呼んだ。養成工とは中学を出た後、トヨタ工業学園(1962年まで豊田工科青年学校 その後も名称は変わっている)で職業訓練を受けた作業者である。

 養成工は学園で学んでいたから、上司には従順で技能も高い。ただ、年が若かったから、熟練職人が多かった当時の現場では遠慮気味に働いていた。

 大野は養成工だけを引き連れて第3機械工場へ出かけていった。そして第3機械工場の担当に断ってから、「よし、始め」と手取り足取り教えながら、アクセル、ハンドルなどの製造を始めたのである。組み立て工場の人間なのにもかかわらず、隣の工場まで出かけて行って作業をしたわけだ。

 そうして、ある程度の個数ができあがったら、組み立て工場に持って帰って、車体に取り付け始めた。第3機械工場の人間から見れば「ふてぶてしいやつ」と映っただろう。だが、彼は部品がなくなると機械工場へ出かけて行って部品作りを繰り返した。エンジンを作っている第1機械工場には足を踏み入れなかったものの、第2と第3機械へはまるで、自分の職場のように涼しい顔で入っていったのである。

 それまではどこの自動車工場でも、前の工程の人間が部品を作り、後の工程の人間はただ部品がやってくるのを待つだけだった。だが、大野は部品が来ないから、自分で前の工程に取りに行った。もちろん、前の工程の担当に断ってはいる。かなり乱暴な行為ではあったが、それくらいのことをやらなければ部品は来ない。組み立て工場は一日遊んでしまうのだった。

 トヨタ生産方式では「後工程が前工程へ部品を引き取りに行く」という特徴があるが、この時代の彼はそこまで考えてやったわけではない。単純に、部品が来ないから勝手に取りに行ったにすぎない。しかし、これが後に大野の頭に鮮烈に残り、後工程が引き取るシステムを生み出すことにつながる。

 大野は部下を連れては前の工程へ作業をしに出かけた。

 「大野、また来たのか」

 第3機械の担当者から問われても、「これがないと車ができんから」と言っては、午前中は部品を作り、午後は組み立て工場でトラックに仕上げた。

 1947年、大野は第2機械工場、第3機械工場の主任(課長から名称が変更)となった。それまで前の工程にあたる機械工場のことを「仕事が遅い」と指摘していたことが上司に聞こえたようで、「文句ばかり言ってくる大野を担当にすれば少しはおとなしくなるだろう」と思ったのである。