
敗戦後の1946年、天皇は人間宣言を行った。年頭の歌会始(うたかいはじめ)の勅題は「松上雪(しょうじょうのゆき)」。昭和天皇の御製(ぎょせい)*は次の通りである。
*=本文中の御製は一部を漢字にしてある。本来の表記は以下。「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」「庭のおもに つもるゆきみて さむからむ 人をいとども おもふけさかな」
「ふりつもる み雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」
敗戦から半年も経っていない正月、皇居前は焼け野原だった。バラックが建ち、冬を越そうという人々は肩を寄せ合って暮らしていた。天皇は御製を通じて、雪に負けない松になろうと語りかけた。
それから3年、1949年の歌会始のお題もまた雪だった。「朝雪(あしたのゆき)」である。
御製は次の通り。
「庭のおもに つもる雪みて さむからむ 人をいとども おもふ今朝かな」
敗戦直後よりもわずかではあるが余裕が感じられる。少しは復興が進んだのがその頃だった。それにしても昭和天皇が御製を作る際、歌に込めるのは国民とその生活だ。自分のことよりも、国民のことを何よりも考えていたのだろう。
やっと乗用車を作れる
敗戦直後から占領が終わるまでの7年間、日本社会だけでなく、世界の変化も急激だった。冷戦が始まり、アジア・アフリカの国々が独立する。原爆だけでなく、水爆が開発され、核戦争が現実のものとなった。ただ、世界を巻き込む大きな戦争が終わったことで、人口は増える一方だった。国を問わず新しい消費者が生まれたのである。
消費者が増えたことで、需要は多様化し、それに合わせて自動車も発達する。量産も進んだ。日本でもトラックが主体ではあったが生産は徐々に増加していった。
敗戦から2年目、1947年のトヨタの生産台数は3922台、翌年が6703台、翌々年が1万824台。いずれもトラックである。乗用車の生産台数は1949年でも全体の生産数のわずか2.2パーセントにすぎなかった。
トヨタのトップ、豊田喜一郎は敗戦直後、財閥解体や過度経済力集中排除法などへの対処で忙しかったけれど、力を注いでいたのは乗用車の研究開発である。GHQ(連合国軍総司令部)や政府との交渉は他の幹部でもできるけれど、乗用車、トラックの仕様をどうするかについては、喜一郎がいなければ前に進まなかった。
1947年6月、GHQは1500cc以下の乗用車について年間300台までの生産を認める決定を出した。
「やっと車を作ることができる」
喜一郎にとって、敗戦後の自由を直接、身体で感じることができたのはその日からだった。
戦争が始まる前から6年もの間、実質的にトヨタは乗用車を作っていない。挙母(ころも)に乗用車を生産するための専用工場を新設したものの、国を挙げての戦争準備に入ってからは軍部に納入するトラックの工場になった。トヨタ自動車自体の設立は戦前だけれど、本格的な乗用車のメーカーとなったのはGHQが生産、販売を認めた、この日からだった。
ただし、喜一郎はその決定が下りる前から情報を得ていたので、量販できる乗用車の研究開発を着実に進めていた。
最初に取り組んだのは小型車用の新しいエンジン開発で、喜一郎は19歳年下のいとこ、豊田英二を責任者にしている。英二は帝大の工学部を出ているから自動車工学、生産技術にも詳しい。何よりも自分の次の世代としてトヨタを引っ張る存在になってもらわなくてはならない。喜一郎はたびたび英二の仕事部屋をのぞいては打ち合わせを重ねた。
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