占領軍の民主化政策のなかで、翻弄されたトヨタだったが、戦後のどさくさのなかで、自動車の販売網を整備する点だけは同業他社を圧倒することができた。それは神谷正太郎がトヨタにいたからである。

(イラスト=五島 聡)

神谷正太郎、現る

 戦時中、日本の自動車販売は国家に管理されていた。メーカーは完成車を日本自動車配給株式会社(以下 日配)に送り、それを日配が全国各都道府県にあった地域の配給会社に卸すといった形だったのである。もっとも、戦時中ほとんどの車が軍需として陸軍に納められるか、もしくは軍需工場に引き取られて輸送用として利用されていた。全国に車を供給する会社が1社しかなくとも、不都合はなかったのである。

 戦後になって、GHQ(連合国軍総司令部)は日配を廃止した。「自由競争で販売しろ」ということだ。

 だが日配は廃止されたけれど、各都道府県にあった下部組織の配給会社はまだ存続していたのである。そして、彼らは右往左往するばかりで、どうやって食っていけばいいのかが分からなかった。地域の配給会社とは戦前はそれぞれトヨタ、日産、いすゞ系列の販売会社だった。それが各地域で統合されたのが配給会社だったのである。

 彼らはすぐにはどこの会社の車(トラック)を扱っていいのか、見当がつかなかった。どの自動車会社が生きのびるのか…。自動車会社自体がわかっていなかったのだから、地方の配給会社が戦後の見通しをつかむことなどできなかったのである。

 そんな時、地方の各配給会社に姿を現したのが神谷正太郎だった。戦前からトヨタの販売責任者を務め、戦時中は日配の常務だった彼は戦争が終わると、すかさず行動を開始した。トヨタに復帰し、全国的な販売網を構築するために地方行脚を始めたのである。