湖西で聞いた玉音放送

 8月15日、喜一郎は妻、息子の章一郎(のちに社長)とともに、東京から父・佐吉が育った静岡・湖西の実家に移っていた。3人は畳の上に正座をして玉音放送を聞いた。ラジオのスイッチを入れたのは喜一郎である。

 初めて耳にする昭和天皇の声は尊大でも威圧的でもなかった。とつとつとしたしゃべり方で、誠実さが声に表れていた。しかし、雑音が多かったのと、表現が古風だったので、にわかに意味がつかめない。放送時間も短く、始まってから終わるまで、5分に満たなかった。

<b>1945年8月15日正午、昭和天皇の肉声を録音した「終戦の詔書」が日本放送協会からラジオ放送された</b>(写真=AP/アフロ)
1945年8月15日正午、昭和天皇の肉声を録音した「終戦の詔書」が日本放送協会からラジオ放送された(写真=AP/アフロ)

 「戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃(たお)れたる者、及びその遺族に想いを致せば五内為(ごないため)に裂(さ)く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。

 惟(おも)ふに今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず。爾(なんじ)臣民の衷情も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」

 3人ともにすべてを聞き取ることはできなかった。だが、戦争に負けたこと、空襲が終わることはわかった。

 喜一郎が感じたことは、「来るべきものが来た」という事実だけだ。

 一方、英二や大野耐一たちトヨタ自工の従業員はその日の午前中、前日の空襲で破損した工場の屋根を補修していた。経営幹部は工場の事務所に集まり、神妙に玉音放送を聞いた。英二の隣にはトラック製造の監督に来ていた陸軍中尉がいたが、中尉は放送の内容がよくわからないようだった。

 「陛下は戦争をやめたとおっしゃっています」

 そう伝えたところ、陸軍中尉はふくれ面をして自室に戻ったという。

 大野もまた工場で玉音放送を聞いた。当時は紡織から移って2年目。しかも、仕事があったわけではなく、組み立て工場の課長の身分である。大野が本気になって生産性向上に取り組むのは喜一郎が工場に戻ってきた8月29日以降のことになる。

瀬戸物、ちくわ、住宅

 8月の末、挙母工場に出勤してきた喜一郎は幹部を集めて、言い渡した。

 「トラック、乗用車の生産と研究開発は積極的にやっていく。次に、それだけでは工場にいるみんなを食わせてはいくことができない。衣食住にかかわる新しい事業を手掛けたいと思う。衣食住は人間の基本だ。いくら占領軍でもやるなとは言えないだろう。最後に、私はいくら苦しくなっても人員の削減は原則として行いたくはない」

 方針はすぐに実行に移された。

 敗戦時、トヨタには9500人が働いていた。正規の従業員は3000人しかいなかったのだが、軍需工場だったために、勤労動員で人数が増えていたのである。

 勤労動員でやってきた従業員には学校の生徒、教師から尼、芸者といった女性たちまで幅広かった。徒刑されていた囚人もまた刑務所から連れてこられた。ただ、そういった人間は無理やり連れてこられていたため、戦争が終われば元いたところへ戻ってしまう。

 そのため、人員は急速に少なくなったが、それでも3000名はいた。また、徴兵で外地に行っていた従業員が戻ってきたら、その人々も雇わなくてはならない。敗戦直後の会社経営者は誰もが「どうやって社員を食わせていくか」を考えなくてはならなかった。

 喜一郎は多角化をすすめた。英二は瀬戸物の研究をやることになった。喜一郎の長男、章一郎は北海道の稚内まで出かけていって、かまぼこ、ちくわの工場に勤めた。数カ月後、やっと名古屋に戻ったと思ったら、今度は「お前は住宅の仕事をしろ」と命じられて、プレキャスト・コンクリートを使った住宅建設の事業化に取り組むことになった。

 他の幹部たちにも、それぞれ課題が与えられた。ある幹部はどじょうの養殖を始めた。鍋、釜、ミシンの製造を担当した人間もいた。しかし、いずれも成功をおさめたとはいいがたい。形になったのは章一郎が取り組んだ住宅建設くらいで、これは後にトヨタホームという会社になっている。

 トヨタが手がけた事業のなかで、もっとも利益に貢献したのは紡織事業だった。戦争末期は休業状態だった紡績、織布だったが、平和になってから人々の衣料品に対する需要は爆発した。また、ベビーブームとなり、乳児、幼児の衣料も引っ張りだこになった。

 戦中、喜一郎が「大切に保管しておけ」と命じた織機を自動車工場の一角に据え付け、綿糸、綿布の製造を再開したのである。戦中に中央紡績(豊田紡織の後身会社)と合併したため、織機は相当な数を保管していた。戦後の糸へん景気も相まって紡織事業はすぐに安定した。戦後のトヨタは繊維事業で息を吹き返すことができたと言っていい。

 喜一郎は生涯、そのことを忘れなかった。後にトヨタ紡織(中央紡績の後身会社)で講演を行い、トヨタを救った紡織事業の価値に感謝を伝えている。

 「わたくしは長いあいだ、機械工業の経営に携わってきた。振り返ってみると…。とくに、自動車工業は、戦時体制下という特殊条件のもとで生まれ、自動車製造事業法をはじめ、国家の手厚い保護の下で発展してきたので、自由経済のなかでのきびしい競争という洗礼を受けていなかった。このため、戦後はこれをどのような方向へもってゆくべきか、簡単には決められなかった。ともかく、いろいろな方向を考え、いろいろな努力をしてみたが、戦後の度を越したインフレ、統制の復活、占領政策の変化などつぎつぎと現われ、どうにも手の下しようのない状況に追い込まれた。…いかに働いても食えんという状態である」

 喜一郎はその時に「紡織にはずいぶん世話になった」とみんなの前で話をしたのである。

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