
後に第5代社長を務める豊田英二は敗戦の年の5月にトヨタ自工の取締役になっている。
創業者の豊田喜一郎は「英二はまだ役員には早すぎる」と反対した。だが、当時、喜一郎に代わって経営の指揮を執っていた副社長の赤井久義が「役員になるのは年齢の問題ではない」と押し切ったのである。
終戦前日に工場爆撃
喜一郎はすでに敗戦を覚悟したようで、仕事に乗り気ではなかった。名古屋から離れ、世田谷の岡本にあった自宅にこもり、読書三昧の日々を送っていた。都心の赤坂にも自宅はあったのだが、そちらは空襲で焼け落ちていた。
もっとも、挙母(ころも)に残った英二たちだって仕事をしていたとは言えない。工場には通っていたけれど、原材料も部品もわずかしかない。敗戦の年になると、名古屋市内は空襲が続き、離れたところにある挙母にもやってくる米軍機があったからだ。
ただし、米軍は田舎に爆弾を落とすのはもったいないと思ったのか、挙母工場には爆撃ではなく機銃掃射が主だった。挙母工場の近くには陸軍の高射砲陣地、さらに名古屋海軍航空隊があり、米軍の飛行機の目標はそのふたつの基地だった。しかし、銃弾が余ると、近所にある挙母工場にも機銃掃射を浴びせて帰途につくのだった。
何度目かの機銃掃射を受けた時のことだ。英二が外出して帰ってきたら、事務所が狙い撃ちされていて、自分が座っていた椅子がバラバラにされていたことさえあった。英二に限らず従業員のやることといえば、機銃掃射で壊れた建物や什器を補修したり、防空壕に避難しているばかりで、まったく仕事にはならなかった。
敗戦の前日、8月14日の午後には挙母工場を狙ってB29が3機やってきた。それぞれが1弾ずつ落とし、1発は社宅のそばに大きな穴をあけ、もう1発は矢作川へ。最後の1発は工場を直撃、4分の1が破損した。ただ、早めに退避していたため、従業員は全員、無事だった。

戦争が終わった後、アメリカから爆撃調査団が挙母工場にもやってきたことがあった。英二は彼らが持参してきた周辺の写真を見せてもらったところ、飛行機から撮った工場の全景がブレもなく写っていた。
「アメリカの爆撃機は無差別ではない。ちゃんと狙って爆弾を落としたんだ」
英二はそう確信した。
彼の認識は正しかった。米軍機は戦争末期になると、爆撃目標を決め、目標をしぼって爆弾を落としている。たとえば東京空襲の際、銀座は焼き払ったが、有楽町駅の反対側にあたる皇居とお堀端は一切、爆撃していない。また、帝国ホテル、東京会館、第一生命ビルも手をつけなかった。すでに戦争に勝つことがわかっていたので、自分たちが進駐した時の事務所、宿舎を確保するために、無傷で残したのである。
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