(イラスト=五島 聡)
(イラスト=五島 聡)

大野耐一の原点

 豊田佐吉、喜一郎の後を受けてトヨタ生産方式を体系化する大野耐一は1912年、中国・大連に生まれた。父親は中国の東北部、満州にあった国策企業、満鉄(南満州鉄道)に勤め、耐火煉瓦(れんが)の開発、製造を行っている。帰国後は愛知県刈谷の地区長、県会議員から町長、最後は衆議院議員になる。耐一という名前は「忍耐を忘れるな」という意味からつけられたものではなく、父親が専門家だった耐火煉瓦の耐を取ったものだ。

<b>大野耐一(おおの・たいいち 1912~90年)トヨタ生産方式を体系化し、副社長を務めた</b>(写真提供=トヨタ)
大野耐一(おおの・たいいち 1912~90年)トヨタ生産方式を体系化し、副社長を務めた(写真提供=トヨタ)

 大野は地元の刈谷中学から名古屋高等工業学校(現 名古屋工業大学)に進み、卒業後の1932年、20歳で刈谷にあった豊田紡織に入社する。

 アメリカとの戦争が始まるまで、大野がやっていたのは織布の担当だった。同社の工場にあった織機は佐吉と喜一郎が開発したG型の改良版で、できあがった綿布の質は高く、統制経済になるまでは飛ぶように売れた。