新生トヨタの世代

 小栗はこう推測する。

 「創業者の孫だってことはあります。でも、それよりも大きかったのは、豊田社長が84年入社だったこと。工販合併してからの入社だったのです。あの人は自工でも自販でもない、新生トヨタ自動車に入った人なんです。新生トヨタ自動車に入社したなかで初めて課長になったのが豊田さんたちの世代でした。それがよかった。

 販売店改革を始めたのは工販合併から10年以上経ってからのこと。新生トヨタ自動車として問題を解決しようという機運も出てきていたと思います。

 それと、販売カイゼンの時、アドバイザーとして林南八(現・顧問)さんを招いたこともよかった。うるさ型の林さんが来たことで、みんながやろうという気になった」

 販売にトヨタ生産方式を導入することは、トヨタの歴史でもっとも難しくデリケートなチャレンジだった。どこの会社にも生産と販売の対立はあるが、トヨタもまた例外ではなかった。

 自工も自販も互いに現状のままではいけないと考え、時に怒鳴り合いながら議論をしていた。それでも有効な手立ては見いだせていなかったのである。

 そのためかもしれないが、販売のカイゼンについては社史にはたった3行しか書かれていない。

 「1994年に第3車両部が生産調査部の協力を得て、トヨタ生産方式(TPS)を販売店の業務改善につなげる活動を始めた」

 協力工場や海外の工場へ広げることにも抵抗や障害はあったけれど、生産現場同士の共感があった。

 一方、生産と販売は別のジャンルだ。生産は販売から指示されるのをうっとうしいと感じるし、販売側は売れなくなると、「売れない商品を押しつけられた」不満がたまる。現実には、どこの会社でもなかなか一体になる関係ではない。いわば水と油の関係なので、一方的に「販売にトヨタ生産方式を適用する」と言われても販売店は「ありがとう。いい案だね」とはならなかったのである。それどころか、販売の現場に生産の人間が立ち入ることに不快感を示す者も少なくなかった。

 この仕事に携わった友山は後日、販売にトヨタ生産方式を導入した経験について講演を行ったことがある。その時、一番前に座っていた池渕浩介(元・副会長)から言われたことがある。

 「おい、よくやったな。大野さんだって、できなかったことだ。俺たちだって、考えはしたけれど、絶対にできないことだった」

販売のカイゼン

 工販合併以前から、トヨタ自工も自販も「お客様のため」を標榜していた。建設的な議論も交わしてはいた。

 しかし、生産と販売はそれぞれの論理を持っている。一般に、生産する方は同じ型の商品をたくさん作れば、部品、作業にバリエーションが少なくて済むから生産性は上がる。一方、販売側が欲しいのは売れる商品だ。同じ型で同じ色の商品ばかりを送ってこられても迷惑なのである。

 トヨタであれば、客は同じカローラでも、他人が持っている車とはどこか違っている車に乗りたい。同じ色のユニクロのフリースを着ている人間がばったり出会ったら、とたんに不愉快になるように、カーオーナーだって、ショッピングセンターの駐車場で同じ車種、同じ色の横に駐車したくはないのである。

 かつて自販を作った神谷正太郎は「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカー」と繰り返し訓戒を垂れた。しかし、バブル崩壊後の現場を駆け回っていた豊田章男は、今のトヨタでは神谷の言葉が守られていないのではないか、と考える体験をした。名古屋トヨペットで本格的に販売カイゼンに着手する以前、カローラ岐阜でのことだ。

 岐阜に出張して、販売店のヤードを見ると、緑色のカローラⅡばかりが並んでいた。当時、トヨタではカローラⅡのキャンペーンカラーを緑色と定め、販促に乗り出していた。新しい車を求めている見込み客には、緑のカローラⅡが薦められ、結果、緑のカローラⅡのオーダーは増える。だから、工場のラインからは緑のカローラⅡが次々と出てくるし、販売店に緑のカローラⅡが並ぶのも不思議ではない。

 しかし、豊田は頭の中に浮かんだ疑問が拭えず、呟いた。

 「これは、本当にカーオーナーが欲しいと思う車を提供していることになるのか?」

<b>男は多様な要望に応えられる体制づくりの必要性を感じ、販売のカイゼンに力を注いだ</b>(写真提供=トヨタ)
男は多様な要望に応えられる体制づくりの必要性を感じ、販売のカイゼンに力を注いだ(写真提供=トヨタ)

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