豊田喜一郎と大野耐一(たいいち)。「トヨタ生産方式」を作ったふたりの男の足跡をノンフィクション作家・野地秩嘉が追う。その功績が広く認められるべき「モノ作りの元祖」たる革命家たちは、なぜ“忘れられる”ことになったのか。

(イラスト=五島 聡)
(イラスト=五島 聡)

 豊田喜一郎は国産乗用車の生産を決意し、トヨタ自動車を作った。本来ならばもっと称賛されてもいいのだろうけれど、父親で発明家、豊田佐吉に比べると過小評価されている。おそらくは晩年、労働争議の責任を取って社長を辞任したこと、働き盛りの57歳で亡くなったことが彼の業績を忘れさせてしまったのだろう。

自社開発

<b>豊田喜一郎(とよだ・きいちろう 1894 ~ 1952年)トヨタ自動車工業 第2代社長</b>(写真提供:トヨタ)
豊田喜一郎(とよだ・きいちろう 1894 ~ 1952年)トヨタ自動車工業 第2代社長(写真提供:トヨタ)

 しかし、彼がいなければトヨタ自動車はなかった。日本の自動車産業はここまで成長しなかった。戦前、喜一郎は周囲の反対を押し切って、三井三菱という大財閥も二の足を踏んだ乗用車の生産を実行に移している。

 「機織(はたお)りのこせがれ」「地方財閥の息子」とバカにされていた喜一郎は最初こそ、アメリカ製の部品を使って自動車を組み上げたが、エンジンは自社開発した。さらには鋼板を作る製鉄所、電気部品、足回り部品を内製する工場を作った。