大野耐一、逝く

 ケンタッキー工場での生産が本格化した1990年の5月中旬、現地で現場を統括していた張富士夫(現・名誉会長)は一時、帰国した。仕事もあったが、トヨタ記念病院に入院していた大野を見舞うためでもあった。病床数500を超える同病院は戦前、挙母工場が開設された時に設けられた診療所が母体となっている。

 体調を崩していた大野は3度目の入院をしていて、張が見舞った時には妻の良久が病室で看護していた。

<b>現場を愛し、トヨタ生産方式の普及に尽力した大野耐一は、多くの人材を残して1990年に逝去した。享年78歳</b>(写真=廣瀬 郁)
現場を愛し、トヨタ生産方式の普及に尽力した大野耐一は、多くの人材を残して1990年に逝去した。享年78歳(写真=廣瀬 郁)

 張を認めた大野は身体を起こそうとする。

 「いえいえ、親父さん、そのままで」

 ベッドに寄り添い、張が声をかけた。

 「親父さん、ケンタッキーはなんとか流れるようになりました。元気になったら、一度、見に来てください」

 「うん、そうか」

 大野は少しだけ笑って再び、張に向かって身を乗り出そうとした。

 同じ月の28日、大野は退院することなく、病室で亡くなった。78年の生涯だった。50年の会社員生活のうち、11年間は豊田紡織に勤務、残りはトヨタ自動車で生産性向上に尽くした。

仕事をする時に、もっとも大切なことは
すべてのことに疑問を持つこと
知恵と改善

 「トヨタ生産方式を作ったのは喜一郎さん」と生涯、言い続けたのは創業社長に対しての遠慮ではない。自分がやったことはあくまで豊田喜一郎の指示に従って、「ジャスト・イン・タイム」というコンセプトを具体化したことと理解していたからだ。言葉の使い方にうるさい大野にとって、「トヨタ生産方式の発明者」と呼ばれることをもっとも嫌っていた。

 大野が残したものをあらためて考えてみると、それは人材だった。鈴村喜久男をはじめ、トヨタ生産方式を伝道してきた社員たちが大野の遺産だ。しかも、人材は現在も活躍している。

 常務役員で元町工場長も務めている二之夕裕美は「出身大学の同窓会で先輩である大野さんに会ったことがあります」と言った。

 「僕はまだ新米だったから、恐れ多くて近寄ることはできませんでした。でも、大野さんを見たことは励みになりました」

 その後、二之夕は生産調査部に入り、主査を経て、元町工場長になる。同工場は大野が工場長を務めた現場で、二之夕は毎朝、出勤すると大野のポートレートに頭を下げる。

 大野はトヨタ生産方式について「完成はない」と言い続けた。また、自分が語った言葉を金科玉条のようにするなとも強調している。彼は教祖にはなりたくなかったし、指導した部下たちが自立することを望んだ。

 大野がまだトヨタに勤めていた頃の話だ。韓国へ出張し、釜山の生産性本部でトヨタ生産方式について講義を行ったことがあった。

 そこで「もっとも大切なことはすべてのことに疑問を持つこと」と語っている。

 「夕焼けはなぜ赤い。タンポポの花はなぜ黄色い。なぜと疑問を持つことは勉強することにつながる。いわゆる考える人が養成される」

 求められるのは、いわゆる知識ではない。困って苦しんで考え抜いた末に出てくる知恵である。それがカイゼンにつながる。トヨタでは「知恵と改善」という言葉で今も伝承されている。

 ケンタッキーの工場にいたポール・ブリッジはトヨタ生産方式を「考えるワーカーにとってはすばらしい生産方式」と言い切った。

 叶わないことだけれど、もし、大野がポールの言葉を聞くことができたら、「それはいちばん嬉しいな」と感想を漏らしただろう。