(イラスト=五島 聡)

 カリフォルニア州フリーモントに設立したトヨタとGMの合弁会社、ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)、トヨタ単独で設立したトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)のケンタッキー工場、カナダに設立したトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・カナダ(TMMC)のオンタリオ工場。この3つがトヨタの初期北米事業だ。

バブルの陰で

 1984年から始まり、3工場が本格稼働した1990年までがプロジェクトの立ち上げ期間と言えるだろう。以後、トヨタは北米に12の拠点工場を設けている。アメリカ国内の10工場のデータをみると、1990年で1万3000人、2015年で3万5000人を雇用している。かつ1960年から累計220億ドル(2兆4000億円)以上の投資をした。

 トヨタの北米進出は戦後、日本企業が海外で行ったプロジェクトでは最大であり、しかも革命的な試みだった。

 当時、北米への進出、工場建設についてはメディアでも報じられた。しかし、トヨタの従業員も含めて、その本当の意味を把握している人間は少数しかいない。それは単に北米に工場を建設しただけでなく、日本発のモノづくりのシステムであるトヨタ生産方式を米国に持ち込み、定着させたという事実と意味について正しく報じられることが少なかったからだろう。

 あの頃、日本はバブルに向かう時期だった。紙面を飾る記事はカネの話が多くなっていき、日本発のモノづくり革命が話題になることは少なかった。カネにまつわるニュースが人々の関心の的だったのである。

1985年9月22日、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議で発表されたプラザ合意は、日本に「財テクの時代」を到来させ、バブル景気をもたらした(写真=AP/アフロ)

 振り返ってみると、1985年にプラザ合意が発表された時からバブルの潮流が生まれた。プラザ合意とはアメリカ経済を立て直すために日本を含む先進5か国が協調してドル安政策を黙認するというものだ。結果として、ドル円レートは1ドル235円から150円に急騰する。

 当時、トヨタがケンタッキー、オンタリオへ投資した額は2160億円である。円が強くなったから、投資にはいい時期である。それにしても大金だったのだが、あの頃、マスコミは海外に工場を建てる会社よりも、土地を買ったり、財テクに金を回す会社を持ち上げていた。モノづくりのために将来をにらんだ投資よりも、目先の利益を当て込んだ投資がもてはやされていたのである。プラザ合意の後から財テクの時代が始まったのだった。

 日本の企業は所有する土地の価格が上昇していた。地価の上昇は株価に反映され、含み益が出る。企業は含み益を使って、土地を買ったり、金融商品に投資する。財テクこそが正しいという風潮だった。

 1987年には日経平均が2万円を突破し、NTT株が上場し、株ブームが到来する。ケンタッキー工場でカムリがラインオフした88年には野村證券が経常利益5000億円で日本一の会社となった。日経平均が3万円を突破したのはその年の暮れだ。

 89年にはバブルは進行し、頂点に達する。ソニーはコロンビア映画を買収し、三菱地所はロックフェラーセンターを自社の物件にした。「東京23区の地価はアメリカ全体の土地の時価総額を上回る」というニュースが伝わった。トヨタのケンタッキー工場でアメリカ人ワーカーたちがトヨタ生産方式と正面から向き合いながら、額に汗して車を作っていることなどはニュースの範疇に入らなかったのである。