(イラスト=五島 聡)

 1986年1月、トヨタはケンタッキー州ジョージタウンにアメリカ現地法人トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)を発足させた。アメリカに初の単独工場を建設するためだ。そして翌1987年、ケンタッキー工場の建屋工事が続く中、一般ワーカーの募集を開始した。

応募者10万人
TMMパワートレイン工場の着工式(1988年、写真提供=トヨタ)

 「3000人の募集」と掲げたところ、応募はなんと10万人に達した。ケンタッキーだけでなく近郊の州から応募してきた人間もいたし、職のない人間だけではなく、他社からの転職組もいた。採用されたなかにはファーストフードの店長、教員、セールスマン、農場、牧場勤務…。変わったところでは棺桶職人という人間もいた。日本の常識からすると、学校の先生が自動車工場のラインに転職するとはちょっと考えにくいけれど、「自分の手でモノを作る人生を生きたい」と応募してきたのだった。

 1984年にGMとの合弁でカリフォルニア州フリーモントに設立したNUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング)の場合、ワーカーは90パーセントがUAW(全米自動車労組)の人間だった。基本的なものづくり作業は誰もが熟知している。

 一方、ケンタッキー工場の場合はUAWに属する人間は少数である。先鋭的労組であるUAWに属するワーカーが少ないことは一見いいことのようにも思えるが、一方で、自動車を作った経験のある人間が少ないという事実でもある。

 NUMMIとは違い、ワーカーに対して「自動車とは何か、エンジンとはどういう働きをするのか」から教えなくてはならなかった。それに工場などまったく入ったことのない素人もいたのである。工場という環境を経験させるため、さらに建屋のないところでは実地研修を施すことができなかったので、北米開発を統括する楠兼敬は総勢330人を日本に送り、4週間、堤工場で研修させることにした。

 330人の旅費、日本での滞在費だけで大きな出費だった。また、一般のワーカーを教育するため、飛行機に乗せて海外へ出張させることも前例のないことだった。

 ではワーカーは日本行きを喜んだかと言えば、そうではない。ケンタッキーで生まれ育った人間には飛行機で20時間以上かかる名古屋への移動は精神的に負担の多いもので、尻込みするワーカーも少なくなかったのである。

 また、アメリカでは夫が1か月も家を留守にしたら、それだけで立派な離婚の理由になる。ワーカーの妻たちの理解を得ることも必要だったのである。

 ジョージタウンから車で30分ほどのレキシントンの国際空港では、旅行への不安と家族と別れる寂しさで号泣する者も続出した。トヨタにとって初めての海外工場建設はさまざまな労力と金がかかるプロジェクトだった。

 堤工場にやってきたワーカーたちは座学の後、ラインでの作業実習となった。なんといっても素人集団である。力の入れ加減がわからず、ボデーにへこみを作ってしまったり、傷をつけてしまうミスが多発した。やる気はあるけれど、空回りしてしまうのが素人の素人たるゆえんなのである。

引かれないひも

 数々のミスはあっても、ケンタッキーから来たワーカーたちは無事に4週間の研修体験を終えた。だが、彼らの反応を知った楠、張(富士夫 現・名誉会長)が不安に思ったことがある。ワーカーたちはトヨタ生産方式の概略は理解したけれど、なかなか「あんどんのひもを引くこと」をしなかった。

 「不具合があったら、ひもを引いてラインを止めろ」

 くどいほど指示したのだが、誰ひとりとして、あんどんのひもを引こうとしなかった。強い言葉で指示しても、下を向くばかりだった。

 ワーカーは標準作業の設定、かんばんの使い方、中間在庫を持たないことなどはすぐに理解して「OK」と言った。標準作業を決めるために管理職が後ろに立ってストップウォッチで計測することなど、まったく気にも留めなかった。アメリカの工場では見慣れた風景だったから、誰もそんなことでストレスは感じなかったのである。

 しかし、あんどんのひもは引かない。楠、張はそれについて予想はしていた。トヨタ生産方式の普及に努め、引退した大野耐一が張に対して「彼らはひもを引くかな」と示唆していたのである。

 張はケンタッキーに赴任する前、大野を訪ねたことがある。

 「アメリカにトヨタ生産方式を根付かせるとき、もっとも気をつけることは何でしょう?」

 大野はまっすぐ張の顔を見て言った。

 「それは、あれだ。アメリカ人が果たして、あんどんのひもを引いてくれるかどうか。そこだけだ」

 楠や実習を請け負った堤工場の人間たちも繰り返し教えたのだが、現実にラインに入った彼らはなかなか引こうとしない。そして、問いかけてきた。

 「ほんとうに自分たちがひもを引いてもいいのか? これは管理職の仕事ではないのか?」

 NUMMIを起ち上げた時にもやはりネックになったことではある。

 NUMMIで働くワーカーの9割はGM勤務のまま合弁工場に横滑りした人間だ。彼らはGM時代に「ラインを止める権限はマネージャーにある」と教わっていたので、自らの判断でラインを止めようものなら解雇されると信じていたのである。実際、GM時代には、仕事をさぼろうとラインを止めたワーカーが即刻クビになった事例もあった。

 「ラインを勝手に止めたらクビになっても仕方がない」

 全米の自動車工場では一種の常識とも言えることだったのである。

 研修を終え、建屋ができ、ワーカーたちは新設された工場で働き出した。だが、工場が稼働してからも、やはりワーカーはあんどんのひもを引かない。

1988年、 TMMでカムリの品質確認1号車のラインオフ式が行われた。現場では試行錯誤と様々なくふうを重ねながら、トヨタ生産方式の定着を進めていった(写真提供=トヨタ)