(イラスト=五島 聡)

 トヨタとGMの合弁会社、ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)の開所式がカリフォルニア州フリーモントで開かれてから2か月後の1985年6月、蓼科のゲストハウスではトヨタの全役員が集まる研修会が開かれた。

選ばれた10名

 3日間の日程が終わった後、副社長の楠兼敬をはじめとする北米事業にかかわる10名の役員だけは社長の豊田章一郎から「君たちは残ってくれ」と伝えられた。

 選ばれた役員が参加した会議で討議されたのはトヨタ単独でアメリカに工場を建てる計画についてである。

 関係スタッフの間ではすでに腹案が練られていたため、話し合い自体は1時間ほどで済んだ。だが、発表された内容は細部まで検討されたものだった。

 「アメリカ、カナダに100パーセント出資の製造会社を作る」

 「アメリカでは2000ccクラスを年間20万台、カナダでは1600ccクラスを5万台、生産する」

 アメリカではカムリ、カナダではカローラを念頭に置いていた。そして、「生産開始は1988年初め」。

 NUMMIはGMとの合弁で、既存の工場、設備を使用したものであり、車種も当初はトヨタ車ではなく、GMのシボレー・ノバだった。

 それに比べると、単独進出は工場用地の選択から始まり、建屋を建設し、従業員もゼロから募集しなければならない。NUMMIのケースよりも、やることはたくさんある。

 仕事は多いが、成功すればトヨタが将来、海外各地に工場を新設する際のプロトタイプともなり得る。

 何よりトヨタ生産方式の本当の海外デビューだ。NUMMIでの取り組みは先進的な研究者などから注目されていたけれど、当時のアメリカの業界関係者はそれが革新的とは思っていなかった。「トヨタ生産方式? なんだ、それは?」といった程度だったのである。

 幸いNUMMIではアメリカ人ワーカーは新方式に馴染んでくれてはいた。しかし、しょせん、GMの工場を手直ししたものだったから、全面的に採り入れていたとも言いきれない。

 「果たして、トヨタ生産方式はアメリカの地でも通用するのか」

 アメリカ進出を決めた会長の豊田英二、社長の豊田章一郎、そして、現場を任された楠、張富士夫(現・名誉会長)はそのことが頭から離れなかった。

リアリストたち

 彼ら全員の気持ちは張の言葉にあらわれている。

 「ケンタッキーに行く前、日本の新聞記者から訊ねられました。アメリカへ行ってトヨタ生産方式ができるのか、アメリカの人たちが受け入れてくれるのか?

 私はこう答えるしかありませんでした。

 『他の生産方式を知らないものですから、トヨタと同じやり方を移植するしかないんです』」

 確かに、その通り。トヨタでは誰ひとりとしてフォード式の大量生産方式を経験していないのである。自分たちがやってきたやり方、自分たちが信じるやり方で乗り込み、勝負するしかなかった。

 ただし、決意は悲壮だったが、感傷はなかった。トヨタ生産方式の普及に尽力した大野耐一に鍛えられ、合理的な精神を持ち、現実を考える人間になっていたからだ。

 トヨタ生産方式は用いるけれども、それをアメリカ人に認めてもらうことが目的ではない。

 目的は現地工場を起ち上げて、アメリカのマーケットでトヨタ車を売ること。アメリカ人ワーカーに気持ちよく働いてもらうこと。ふたつの目的のために同方式を用いるとわかっていたし、それ以上にトヨタ生産方式を持ち上げる気持ちもなかった。

 もし、楠、張が浪花節の人物だったら、鉢巻きを締め、トヨタの創業者、豊田喜一郎の位牌を胸にアメリカ行きの飛行機に搭乗するくらいのことはやったかもしれない。

 しかし、彼らはリアリストだ。アメリカのマーケットで消費者に支持してもらうことこそ喜一郎の本意と思っていた。プロジェクトを統括した楠は余計なセンチメントは持っていなかったのである。

 東北大学を出た楠がトヨタに入社したのは敗戦の翌年である。同期入社は技術系だけで24人。決して少ない数ではない。貧乏なベンチャー企業としては思い切った採用数だった。入ってから楠が喜一郎の顔を見たのは数回で、話をしたのは一度きりである。

 それでも楠は喜一郎に魅了された。「自分たちを引っ張っていってくれる人」と感じたのである。