彼が弟子たちにつねづね言っていたことがある。
「管理職は部下によく考えさせる人でなくてはならない。部下にやりがいを持たせて、そして、人間性尊重だ」
大野の番頭役だった鈴村喜久男はすでに退職していた。彼も実践委員長としてNPS研究会に加わり、多くの会社の生産性向上に尽くした。鈴村はトヨタにいた時と同様、「こらーっ」と怒鳴りまくりながら、これも変わらず、相手に考えさせる指導を続けた。
大野が退職した後、同方式を広めるための実戦部隊になったのは生産調査部(前身は生産調査室)だった。主査の好川純一(元・取締役)が中心となり、次の世代に受け継いでいった。現在、生産調査部はトヨタ本体の工場に限らず、協力工場、そして、他のメーカー、農業法人までを指導の対象にし、さらには海外の工場、海外の協力工場までも守備範囲としている。こうして、喜一郎が提唱した「ジャスト・イン・タイム」の実践は世界に広まっていった。
だが、詳しく検証すると大野の最大の目的は仕事を通して次世代のリーダーを育成することにあった。なぜなら現場を知るリーダーがいなければトヨタ生産方式の本質が伝わらないからだ。
同方式を広めるためには現場に行って、現場の作業者の気持ちを理解していなくてはならない。お父さんお母さんカンパニーのような小さな企業の立場を知らなくてはならない。トヨタが成り立っているのは現場のおかげ、小さな企業の協力があってのことだと肝に銘ずる人間でなければ同方式の運用を誤るおそれがあるからだ。
大野は現場に感謝し、作業者を愛し、現場に入り込んで、とことん一緒に考えるリーダーを育てたかった。
合併後のトヨタが1980年代にやったことは、アメリカ本土での現地生産だった。それも、単に工場を建てるのではない。眼目は現地にトヨタ生産方式を持っていくことだ。それはトヨタの経営トップの悲願でもあった。
フォード式大量生産方式(フォーディズム)の牙城であるアメリカ本土にトヨタ生産方式を持っていくことができるのか。アメリカのワーカーはこの方式を受け入れるのか。
もし、「ノー」と言われたら、トヨタの現地工場は立ち枯れてしまう。建屋はあっても、自動車の生産はできない。当時は大野がいなくなった直後でもあり、次世代の人間たちは海外における前途を真剣に思いやった。なんといってもトヨタ生産方式は日本のなかだけで実行してきた生産方式だったからだ。
なぜアメリカに工場を作らなくてはならなかったのか。それを理解するには時計の針を少し戻す必要がある。
1979年、第二次石油ショックでガソリン価格が高くなったため、産油国ではない日本の自動車会社はさんざん苦労をして、高いガソリンを節約する技術を確立することができた。一方、アメリカは産油国だったため、ガソリン価格は日本ほどは上がっていない。これまでのようにガソリンを消費する車を作っていてもよかったはずだが、実際にはそうならなかった。
アメリカでも若い消費者たちは時代の空気に敏感で、排気量が大きくガソリンをガブ飲みする「ガスガズラー」を流行遅れと認識し、また環境によくないと反発したのである。そして、アメリカ車よりも小さく、安価で、ガソリン消費量が少ない日本の自動車に人気が集まった。
アメリカの自動車会社もモノがわかっていないわけではない。ビッグ3も省エネ車の開発に着手していたのだが、大きな車から小さな車への方向転換はそれほど簡単ではなかったのである。
ビッグ3は大きな車を作るノーハウは持っていた。しかし、小さくすればいいわけではない。設計を根本から変えなくてはならなかったし、また設備も一から作らなければならなかった。何より、小さな車を作ったとしても、儲けは大型車よりも少ない。苦労する割に得られる利益が少ないのが小型車への転換だった。
それだけではなかった。アメリカの政財界および自動車産業に大きな影響力を持つ石油資本は、それまで通りガソリンをたくさん消費してくれる大型車を望んでいたのである。こうしたこともあり、方向は決まっていたものの、ビッグ3がコンパクトカーを完成するには多大な時間がかかった。
しかし、時代は待ってくれない。1979年、クライスラーは11億ドルの赤字となり、アメリカ政府はクライスラー救済法を制定し、融資保証を付けることになった。翌年にはGMが創業以来、初めて7億ドルの赤字を出し、フォードも15億ドルの赤字決算となる。ビッグ3はどこも従業員の解雇とレイオフに踏み切らざるを得なかった。
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