(イラスト=五島 聡)

 戦後、始まったトヨタ生産方式の体系化、および社内の各工場、協力工場における実践は1980年までには目途がついた。だが、カイゼンに終わりはない。新しい車種が開発されるたびに、全工場で同方式のブラッシュアップを進めることは同社の体質となっており、体質は現場に定着していた。

1982年、工販合併
1982年3月15日、自工から花井正八会長(左端)と豊田英二社長(左から2人目)、自販から加藤誠之会長(右端)と豊田章一郎社長が出席して、合併契約書に調印した(写真提供=トヨタ)

 1982年、トヨタは事業再建のために分かれていたふたつの会社が32年ぶりに元のひとつに戻った。自工と自販は対等で合併し、新生トヨタ自動車となったのである。そして新生トヨタ自動車の初代社長には創業者・豊田喜一郎の長男、章一郎が就任した。

 この時、直前まで自販の会長を務めていた長老、加藤誠之は「会社の分割はまさに生木を引き裂かれるような思いだった」とあらためて述懐している。同業他社はいずれも製造、販売が同一組織だったのに、トヨタだけが分かれていたのは不自然だった。

 工販合併は大きな変化だった。合併のために膨大な事務作業とエネルギーを費やしたけれど、終わってみると、ふたつの組織が交じり合うことができ、重複するところは人員を減らすことができた。それまではやはり別会社だから、仲が悪いとまでは言わないけれど、兄弟げんかのようなきしみはあった。しかし、他人同士の合併よりは摩擦は少なかった。何よりも合併でよかったことは、大幅な世代交代が進んだことだったろう。

 世代交代に伴い、トヨタ生産方式の普及に尽力した大野耐一は相談役を引き、退職した。70歳である。同じ年、弟子の張富士夫(現・名誉会長)は45歳で生産管理部の次長。張と同期の池渕浩介(元・副会長)は田原工場工務部の次長。林南八(現・顧問)は39歳で、元町工場機械部の副課長。河合満(現・副社長)は34歳で、本社工場鍛造部の班長。友山茂樹(現・専務役員)は24歳の平社員で第3生産技術部技術員室勤務。

 大野はトヨタ本社の相談役のみならず、同年に豊田合成の会長、のちに豊田紡織(現・トヨタ紡織)の会長もやめ、その後はトヨタ生産方式に学ぶ異業種の協会「NPS研究会」の最高顧問などを務めた。