(イラスト=五島 聡)

 1966年、トヨタはアメリカ市場にアタックをかけるためにRT43-L型と名づけたコロナを送り出した。ソニー創業者の盛田昭夫が「アメリカはオートマチック車でなければだめですよ」とアドバイスしてから10年目、技術陣はその通りの車を開発したのである。

コロナ、米国へ

 同型コロナは輸出用の車として初めてオートマチック・トランスミッションを搭載したもので、排気量は1900cc。アメリカのハイウェイを長時間、高速走行してもエンジンは快調だし、車体がふるえることもなかった。酷評されたクラウンとは性能も段違いだったため、アメリカの消費者には「コンパクトで良質のセカンドカー」と好評だった。価格は1台が1860ドル。2000ドル以上のアメリカ車と1600ドル前後のヨーロッパ車とのちょうど中間の価格だった。

 同型コロナの評判がよかったため、トヨタの輸出台数は次第に増えていく。

 1964年、アメリカ市場で売れたトヨタ車は約4000台だったのに、66年には2万6000台となっている。また、68年からはコロナに加えてカローラの輸出が始まった。69年には両車種とランドクルーザーなど15万5000台を売り、輸入乗用車会社の第2位となっている(1位はフォルクスワーゲン)。71年には40万4000台、72年には累計100万台を達成し、75年にはついにフォルクスワーゲンを押さえてアメリカが輸入する乗用車のトップとなった。

アメリカのハイウェイを走るコロナ。対米輸出拡大の先兵に(写真提供=トヨタ)

 あくまで輸入乗用車というカテゴリーだったから、アメリカの車に勝ったとまでは言えない。しかし、それでも日本車の品質が悪くないことを証明したのがトヨタの車だった。

 また、ここで重要なのはドイツ、イタリア、フランスの車と違い、日本車はアメリカに輸出する場合、ハンドル、ブレーキ、アクセルなどの位置を変えなくてはならなかったことだ。右ハンドルから左ハンドルにすると、さまざまな部品の位置を変更する必要がある。むろん、生産工程も変わる。トヨタ生産方式を体系化した大野耐一たちは左ハンドルの輸出車を生産するために、一からカイゼンをやり直したのである。

 輸出が増えていくにしたがって、トヨタはドメスティックな会社からの脱皮を迫られるようになっていく。世界のことを考えるセクションを作り、それに合わせた従業員を雇う。世界の情勢に敏感になったトヨタの耳に入ってきたのが大気汚染と排出ガスの問題だった。

ベトナム戦争と排出ガス規制

 1970年、アメリカでは大気清浄法(マスキー法)が成立した。マスキーとは同法案を提出した上院議員の名前で、法案は自動車の排出ガスに対しての規制である。

 具体的にはその年から5年後にはHC(炭化水素)、CO(一酸化炭素)、加えてNOx(窒素酸化物)をそれぞれ1970年、71年規制の10分の1の量にすることを義務づけるものだ。