敗戦の気配

 自動車業界が海外メーカーとの競争に直面した1967年、わたしは10歳で東京の世田谷区に住む小学生だった。父は職業軍人で、戦後は富士重工に勤務。ラビットスクーターとスバル360の開発担当者だった。

 だが、42歳で病死。母親が代わりに入社して、月給嘱託社員として勤務していた。小学校のクラス40人のなかで、母親が働いていたのは3人だけ。うちをのぞいたふたりの母親は生命保険の外交員をしていた。当時、夫を亡くした女性が働くところと言えば生命保険の外交員くらいしかなかったのである。

 うちの家は決して貧しくはなかったけれど、余裕があったわけではなかった。母親の給料と父親の恩給が一家を支える収入だったからだ。

 東京オリンピックが開催され、新幹線が走り、首都高速が整備されたことは身近に感じていた。だが、世田谷には高層ビルがあったわけではないから都市化のまっただなかにいたとは言えない。

 そして、当時のことを思い出してみる。時代の記憶を呼び覚ますキーワードは高層ビル、モータリゼーションといった高度成長にかかわるものではない。わたしがいまも忘れられないのは敗戦の気配がここかしこに残っていたことだ。

 戦争から帰ってきた人が社会の中核にいたし、近所の公園には防空壕が残っていた。テレビアニメや漫画誌には戦闘機や戦艦が出てくる物語がいくつも載っていた。

 日ごろ接していた小学校の先生のなかで、年長者はシンガポールや中国大陸に出征していたと語っていた。商店街のおじさんや母親が勤めた富士重工にも戦場を知る人が少なからずいた。

 彼らがわたしたち子どもに語ることと言えば戦争そのものについてではない。「戦時中に比べればいまは贅沢だ」という日々の生活態度に対する訓戒だった。

 モノがないことに文句を言ってはいけないとしつけられ、洋服でも靴でも文具でも大切に扱えと教えられた。外食は贅沢であり、出前を取ることは主婦の怠慢とされた。金持ちだからといって山海の珍味を食べていたわけではなく、洋服だって、とっかえひっかえ着ている人はいなかった。金を持っていても、他人にそれとわかる使い方はしていなかった。

 そんな時代である。モータリゼーションは進行していたけれど、自家用車は贅沢品の範疇だった。

 小学生時代、わたしのクラスのなかで自家用車を持っていた家庭がどのくらいだったかといえば、数人程度だった。しかも、その半数は青果店、精肉店といった人たちが乗っていた商用車だ。世田谷の中流家庭の人間が暮らす地域だったが、1960年代の自家用車保有率とは1クラス40人にせいぜい数台といったところだった。